第91話:『王の帰還と、狼たちの嗅覚』
賢者の庵は静寂に包まれていた。
微かに香る薬草と、湿った土の匂い。シーツに沈む体はまだ熱を帯び、鉛のような気だるさがまとわりつく。
だが、裏腹に思考だけはかつてないほど冴え渡っていた。
枕元に置かれた『囁きの小箱』。そのひやりとした金属の感触だけが、熱に浮かされた意識を現実へと繋ぎ止めている。この小さな箱一つで、今、世界の運命を握っているのだと。
『――リナさん。……本当に、よろしいのですか……?』
通信の向こうから、グランの案じる声が響く。
私はカップから立ち上る薬草茶の湯気を見つめ、静かに息を吐いた。
「ええ。もう、賽は投げられましたから」
熱が下がりきらないこの病床から、私は最後の、そして最大の舞台を演出していた。
作戦名は、『最後の喝采』。
「いいですか、グランさん。国王陛下には『奇跡的に病から回復された』と宣言していただきます。民衆と貴族たちの驚きと油断を誘うのです。聖女様の奇跡のおかげ、ということにでもしておけば、誰も疑いますまい」
『……承知いたしました。陛下には、そのように』
「アルフォンス王子。あなたはまだ動かないでください。水面下で我々と通じている貴族たちとの連携を密にし、来るべき時に備えるのです。……あなたは、最後の切り札なのですから」
『……ああ。分かっている』
若き王子の、覚悟を決めた声が静かに響いた。
◇◆◇
その数日後。
アルカディア王国の王都に、激震が走った。
病に倒れ再起不能とまで囁かれた国王レオナルド三世が、突如として玉座に復帰したのだ。
謁見の間に現れたその姿に、集った貴族たちの間にさざ波のような動揺が走った。囁き声が止み、誰もが息をのむ。
玉座へと向かうその顔は確かにやつれ、頬は病の影にこけている。
だが、その双眸に以前の無気力な諦めの色は微塵もなかった。宿るのは、まるで死の淵から蘇った者のごとき鬼気迫る気迫と、全てを見透かすような静かな怒りの炎だった。
玉座に着いた王は、かすれてはいるが謁見の間の隅々にまで響き渡る声で宣言した。
「――皆の者、よく集まった。見ての通り、余は聖女マリア殿の大いなる奇跡により、こうして再び玉座に戻ることができた」
傍らに控えるマリアへ一瞥をくれると、彼女は完璧な聖女の微笑みを返す。
「だが、余が病床にある間、帝国の牙は緩むことを知らぬ。よって、ここに全ての有力貴族へ招集をかける! 三日後、この謁見の間に再び集え! 帝国の脅威に対抗するための緊急軍議を開く!」
あまりに唐突で力強い宣言に、王国中が揺れた。
ある者は歓喜し、ある者は困惑し、そしてある者は――その背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
◇◆◇
蝋燭の炎がゆらめき、壁一面の書棚に長い影を落とす。王都の喧騒が嘘のようなバルガス侯爵の書斎に、焦げ付くような焦燥の匂いが満ちていた。
数人の男たちが、陰鬱な顔を突き合わせている。先の戦で失脚した腐敗貴族派の残党たちだ。
「……おかしい……」
バルガス侯爵は、神経質に指の爪を噛みながら低く唸った。
「あの老いぼれが、今さら何を企んでいる……。聖女の奇跡だと? 馬鹿馬鹿しい!」
誰よりも王の無力さを知る彼にとって、あの抜け殻のような男がこれほど急変するなどあり得なかった。
「……罠だ」
長年の権力闘争で研ぎ澄まされた狼の嗅覚が、危険な匂いを嗅ぎつけている。
「何者かが裏で糸を引いている……。誰だ……? ……まさか……」
脳裏に、あの忌まわしいフードの軍師の影がよぎり、奥歯を強く噛みしめた。
「……もはや王都は危険だ」
侯爵は決断を下す。
「これより我々は東へ向かう。ロベール伯爵の領地へだ。あそこならヴェネツィアの支援も受けられる。兵を集め、態勢を立て直す!」
彼らは王の招集を無視し、夜陰に紛れて王都から脱出する準備を密かに開始した。
一方、何も気づかぬ鈍感な者たち。
状況を静観しようと決めた日和見主義者たち。
そして王の復活に慌てて手のひらを返そうと画策する抜け目のない者たち。
それぞれの思惑を胸に、彼らは続々と王都へと集結してくる。
誰もまだ気づいていない。
自分たちが、これから始まる壮大な粛清劇の観客であり、同時に裁かれる被告人であるということに。
運命の軍議まで、あと三日。
王都の華やかな夜の裏側で、物語の最後の舞台が、静かに整えられてゆく。