第90話:『将軍の雷と、帝都への吉報』
薬草と消毒液の匂いが満ちる賢者の庵は、ここ数日、帝国軍の野戦病院と化していた。
ハヤトとの戦闘で傷を負った『影の部隊』の隊員たちが静かに息をし、その中心で、私は高熱の悪夢にうなされ続けていた。
どれほどの時が経ったのか。
セラの献身的な看病と、帝国から届けられた最高級の薬のおかげだろう。燃えるようだった熱がようやく引き、数日ぶりに寝台の上で体を起こせるまでに回復していた。まだ世界が少し揺れている。
「……リナ様。お加減はいかがですか?」
心配そうに顔を覗き込むセラの目の下には、濃い隈が痛々しく刻まれていた。
「……もう大丈夫。セラさんこそ、少しは休んで」
掠れた声でそう言うと、彼女は心からほっとしたように、その表情を緩ませた。
だが、その穏やかな時間は長くは続かない。
枕元に置かれた『囁きの小箱』が、ぶぶっ、と短く無粋な音を立てて振動した。セラが預かっている、ライナーとの通信機だ。
彼女がそれを取り、ボタンを押す。
『――セラか。……リナはどうだ。話せるか』
ノイズの向こうから響いてきたのは、地獄の底から湧き上がるような、低く不機嫌なグレイグ中将の声だった。
セラは一瞬ためらい、私に視線を送る。私が小さく頷くと、彼女は意を決して答えた。
「……はっ、閣下。はい、お代わりできます」
おそるおそる差し出された小箱を、私は受け取った。ひんやりとした金属の感触。深呼吸を一つして覚悟を決め、それに口を近づける。
「……グレイグ……さん……? ご心配を、おかけしました……」
その弱々しい声を聞いた瞬間。
通信の向こうで、何かが爆発した。
『――この、大馬鹿者がァァァァッ!!』
ビリビリと小箱が震えるほどの雷鳴が、私の耳を貫いた。
『危ないことはするなとあれほど言っただろうが! 敵地のど真ん中で倒れ、おめおめと攫われおって!』
それは、中将としての叱責ではなかった。
ただ、娘同然の少女の安否に身を焦がしていた、一人の男の魂からの叫びだった。
「……ごめんなさい……」
そう絞り出すのが精一杯だった。
しばらくの沈黙。通信機の向こうから、全てを吐き出すような、重い溜め息が聞こえた。
そして、今度はできるだけ穏やかさを装った、しかし有無を言わせぬ声が続く。
『……まあ、無事で何よりだ。ライナーから、病床でまた何かごちゃごちゃと指示を出しているとは聞いている。今は大事な時だ。対処するなとは言わん。だが、セラの言うことは絶対に聞け。そして、できる限り安静にすること。いいな! これ以上動き回るな! お前には優秀な手駒どもがいるだろうが!』
「……はい……」
『……分かったなら、いい。……まあ、なんだ。……その……よく、生きていた。報告は聞いている。あとは奴らが上手くやるだろう。……だから、お前はゆっくり休め』
ぶっきらぼうな言葉の端々に滲む、不器用な温かさ。
それが彼なりの最大限の優しさだと分かるから、胸が熱くなる。
通信は、一方的に切れた。
ふぅ、と長い息をつき、私はセラに小箱を返す。背中にはびっしょりと冷や汗が滲んでいた。
「……嵐のようでしたね」
「ええ。ですが、閣下もこれで少しは安心されたでしょう」
セラはそう言って、慈しむように微笑んだ。
◇◆◇
通信を終えたグレイグは、荒い息を整えると、すぐさまペンを執った。
帝都へ送る親書だ。これまでの経過報告と、王国の今後の展望を記した、極めて重要な文書。
インクが染みた羊皮紙に、力強い文字が綴られていく。
『――第三王子アルフォンスによる王国改革、成功の公算大ナリ。帝国は近く、長年の宿敵ではなく新たな友邦を得ることとなろう。天翼は無事保護。ただし、現在療養中』
数日後。
帝都の執務室で、皇帝ゼノンはその親書を静かに最後まで読むと、傍らに立つ皇妃セレスティーナと顔を見合わせた。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「……ふふ。凄いことをしてくれたみたいですわね、私たちの小さな軍師様は。……少し、お灸を据える必要がありそうですけれど」
皇妃の顔には、安堵と誇りが入り混じった温かい笑みが浮かんでいた。
皇帝もまた、大きく頷く。
「ああ。全く、大した娘だ。帰ってきたら、まずは説教だな」
その場にいたユリウス王子も、宰相も、全ての側近たちが、長く強張っていた肩の力を抜いた。
帝都に、久しぶりに穏やかな光が差し込む。
だが、彼らはまだ知らない。
東のロベール伯爵領に逃げ込んだ毒蛇が、静かに牙を研いでいることを。
そして、その蛇を操るヴェネツィアの影が、まだ諦めてはいないことを。
本当の夜明けは、まだもう少しだけ、先の話だった。




