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第89話:『老商人の焦燥と、見えざる蜘蛛の糸』


ヴェネツィア連合、評議会室。

窓から差し込む光は細く、運河の湿った匂いと蝋の燃える香りが淀んだ空気に満ちている。

主である老商人ドナートは、ここ数日、ずっと眉間に深い皺を刻んでいた。その指先が、苛立たしげに黒檀の机を叩く。コツ、コツ、と。乾いた音が、重苦しい沈黙を切り裂いていた。


(……全てが、上手くいかん……!)


描いていた絵図は完璧なはずだった。

弱体化した王国にロベール伯爵という火種を投げ込み、内乱を引き起こす。戦火が国土を焼き、帝国も王国も疲弊しきったその先に、再びヴェネツィアの商人たちが全てを牛耳る古き良き時代が戻るはずだった。そのために、莫大な資金と傭兵を伯爵に送り込んだのだ。


だが、現実はどうだ。

ロベール伯爵は確かに兵を集めている。しかし、他の貴族どもの動きが鈍い。それどころか、水面下で何者かと通じ、国王派へ寝返る不穏な気配さえある。まるで目に見えない蜘蛛が、裏で緻密な巣を張っているかのようだ。


「……ドナート様。例の件ですが」


扉が静かに開き、側近が滑り込んできた。彼の潜めた声が、ドナートの苛立ちの火に油を注ぐ。

「我々が雇っていた密偵が、森で倒れていた少女を確保。ですが……その後、何者かの襲撃を受け部隊は壊滅。少女も奪取された、とのこと……」


ガンッ!

叩きつけられた拳が、黒檀の机を鈍く鳴らした。

「……馬鹿者どもがッ!」

絞り出すような声が、室内に響き渡る。

その少女が『天翼の軍師』だったと言うことはまず無いだろう。だが、もしそうであったなら。帝国との交渉を覆す最大の切り札を、みすみす手放したことになる。そして、どちらにしても、この襲撃は帝国との関係を決定的に悪化させる、最悪の一手だ。


「……襲撃者の正体は」

「……は。その手際の良さと装備から、帝国の『影の部隊』かと……」

「……やはりか」

ドナートは奥歯を噛みしめた。ギリ、と嫌な音が鳴る。全てが後手に回っている。こちらの動きが、まるで全て筒抜けであるかのように。


「……それと、もう一つ」

側近がおそるおそる言葉を続ける。

「リューン近郊の森に配置しておりました、賢者グランの監視網が……完全に機能を停止いたしました」

「何だと!?」

「庵の周辺が、いつの間にか正体不明の、高度に訓練された兵士たちによって鉄壁と化しており、もはや我々の密偵では近づくことさえ不可能であると……」


グラン。あの小賢しい女賢者が、何か動いたか。

いや、違う。彼女一人に、これほどの芸当ができるはずがない。


「(……まさか……)」


ドナートの脳裏に、ありえない、しかし、最もあり得る可能性が稲妻のように閃いた。

反王宮派の貴族たちをまとめ上げ、賢者の庵を固め、そして我々の密偵部隊を壊滅させる。

これら全ての動きが、まるで一つの意志の下に統率されているかのようだ。


「……『天翼の軍師』……」


忌々しい名が、乾いた唇から漏れた。

「……あの化け物は、一体どこで指揮を執っているのだ……!?」

彼は信じて疑わなかった。軍師は今、帝国のどこか安全な場所から、全ての駒を操っているのだと。まさかその本人が、つい先日まで自分の手の者が捕らえかけた、あの小さな少女であったとは夢にも思わずに。


ドナートは、苛立ちのままに机の上の羊皮紙をぐしゃりと握り潰した。

手のひらの中で、脆く崩れていく紙の感触。

自分たちが張り巡らせたつもりの蜘蛛の巣は、いつの間にか自分たちを絡めとる罠と化していた。老商人は、自らが見えざる敵の掌の上で踊らされていることに、まだ気づいていない。

ただ、得体の知れない焦燥だけが、蝋燭の影のように彼の心を蝕んでいく。


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― 新着の感想 ―
「あの小さな少女であったとは夢にも思わずに。」 とあるのに 「その少女が本当に『天翼の軍師』だったかは分からぬ」 というのはおかしいてしょう。 もう少し推敲を。
少女なら素性不明な軍師より慈愛の女神のほうに連想されそうなものだけど 帝国と戦ってた王国にしかまだ話広まってないのかな・・・
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