第88話:『商人の天秤と、割れる評議会』
ガレリア帝国と、アルカディア王国。
二頭の獅子が睨み合う、その狭間。潮風だけが国境を越える海沿いの一帯に、古来よりどちらの国にも属さぬ者たちの楽園があった。
富と自由。
ただそれだけを追い求める商人たちが築いた港湾都市は、やがて緩やかな盟約で結ばれ、一つの共同体として機能し始める。
人々はそれをこう呼んだ。
――中立商業国家、『ヴェネツィア連合』、と。
彼らは剣ではなく金貨で戦い、領土ではなく商圏で覇を競う。
国是はただ一つ、『均衡と利益』。
帝国と王国が互いに血を流し、消耗し続けることこそが、彼らにとって最大の蜜。戦争が始まれば両国に武器と兵糧を売りつけ、終われば疲弊した国土に復興支援と称して金を貸し、その経済を内側から支配する。
二頭の獅子が争う様を高みから見物し、こぼれ落ちる肉片を漁るハイエナの群れ。それが彼らの正体だった。
◇◆◇
だが今。
その完璧なはずだった「均衡」が、根底から崩れようとしていた。
帝国の『天翼の軍師』。その規格外の存在が、あまりにも早く、そしてあまりにも一方的に、戦の天秤を傾けてしまったからだ。
ヴェネツィア連合の最高意思決定機関、『十人評議会』。
その薄暗い大理石の議場は、かつてない怒号と混乱の渦に飲み込まれていた。窓から差し込む光が、舞い上がる埃をきらきらと照らし出す。
「――このまま帝国を増長させてはならん! 我々の庭が、あの軍師に荒らされるぞ!」
テーブルを叩き、声を張り上げたのは評議会の長老、ドナート。皺深い顔に焦りを浮かべた『既得権益派』の筆頭だ。彼の一族は長年、王国との黒い癒着で莫大な富を築いてきた。
「ロベール伯爵を全面的に支援し、王国内に内乱を引き起こさせるのだ! 戦が長引けば長引くほど、我々の利益となる!」
だが、その古びたやり方に、若き声が敢然と異を唱えた。
新興の海運商会を率いる『新興勢力派』の旗頭、マルコだ。
「ドナート殿! あなたのお考えはもはや古い! 時代は変わったのです!」
マルコは勢いよく立ち上がり、血色の良い顔で全ての評議員を見渡す。
「帝国のあの軍師は、ただの戦争狂ではない! 彼が見据えているのは戦争のその先……安定した二国間の新たな秩序だ! そうなれば王国は我々からではなく、帝国から物資を買う! 我々は干上がるだけだ!」
「ではどうしろと申すか、若造が!」
「決まっているでしょう!」
ドン、とマルコが机を強く叩いた。その音に、議場が一瞬静まり返る。
「古い利権にしがみつくのではない! 我々がその新しい秩序を作る側に回るのです! 帝国と手を組み、この改革を支援する! その見返りとして、未来の帝国と新生王国、その間の全ての商流、流通の独占権を勝ち取る!」
「帝国に頭を下げろと言うのか!」
「ええ! 頭の一つや二つ、いくらでも下げましょう! それで百年先までの利益が約束されるのなら!」
議場は二つに割れた。
王国との癒着と短期的な戦争特需にすがる老獪な既得権益派。
帝国の圧倒的な力と未来の長期的な利益に賭ける野心的な新興勢力派。
互いの視線が火花を散らし、一歩も譲らぬまま空気が張り詰める。
やがて、議長が重々しく口を開いた。
「……話は平行線のようだ。この件、一旦採決は保留とする。……各自、自らの信じる道を行くがよい」
彼の目が、鋭く光る。
「……ただし、この連合の名を汚す真似だけはするな。どちらに転んでも、我々はヴェネツィアの商人なのだからな」
それは、事実上の「内紛の黙認」だった。
議会は物別れに終わった。だが、静まり返った議場を出る者たちの目には、新たな闘志の炎が宿っていた。水面下で、二つの派閥がそれぞれ独自の行動を開始する。
ドナート率いる既得権益派は、夜の闇に紛れ、ロベール伯爵の元へ莫大な金塊と腕利きの傭兵部隊を秘密裏に送り込む。
そしてマルコ率いる新興勢力派は、帝国の宰相アルバート、そして後方司令部にいるグレイグ中将への極秘の接触を試みるべく、最も信頼できる使者を選び出した。
商人の天秤が、大きく揺れ始めた。
どちらの皿に金貨が積まれるのか、それはもはや誰にも分からない。
ただ確かなことは一つ。
彼らの内紛が、リナが描く未来図に、新たな、そして予測不能な変数として加わったということだけだった。