第87話:『病床の軍師と、動き出す世界』
帝国の前線拠点の静寂を切り裂いたのは、グレイグと部隊演習の確認をしていた、午後のことだった。
『囁きの小箱』が、掠れた音を立てて光を放つ。ライナーからの緊急連絡だった。
『――リナ様の奪還に成功。だが、過度の疲労と高熱で絶対安静だ。賢者グラン殿の庵にて保護している。至急、帝国最上級の薬を!』
安堵と焦燥が綯い交ぜになった声が、空気を震わせる。
その報告を耳にした瞬間、セラの顔から血の気が引いた。
カサリ、と乾いた音を立てて手にしていた書類が滑り落ちる。いつも冷静沈着な彼女の瞳が、これまでにないほど激しく揺れていた。
「……リナ様が……」
絞り出した声は、か細く震えている。
黙ってその様子を見ていたグレイグが、セラの肩にそっと手を置いた。
「行ってこい、セラ」
静かだが、有無を言わせぬ力強い声。
「お前の気持ちはわかる。この前線の拠点は俺が引き受けよう。何一つ心配はいらん」
「お前が行かずに誰が行く。リナを頼んだぞ」
その言葉が、最後の引き金だった。
セラはグレイグに一度だけ深く頷くと、マントを翻して駆け出した。
薬庫から最高級の薬と解熱薬を革袋に詰め込み、厩舎から最も脚の速い軍馬を引き出す。関所のない獣道を物ともせず、空気を切り裂くように、セラはただひたすら馬を駆った。頬を打つ風は冷たく、跳ね上がる泥が顔を汚しても、もはや気にならない。脳裏に浮かぶのは、倒れているという主の姿だけだった。
夜通し駆け続け、東の空が白み始めた頃。
息を切らして賢者グランの庵に転がり込んだセラは、その姿を見つけた。寝台に横たわるリナは苦しそうに浅い息を繰り返し、その顔は青白く、額には脂汗が滲んでいる。
「……リナ様……!」
無事だった安堵と、胸を締め付けるような痛みが同時に押し寄せる。セラは己の疲労など忘れ去り、すぐさま持参した薬を水に溶かすと、甲斐甲斐しく看病を始めた。
◇◆◇
薬草の香りが満ちる清潔な寝台の上で、私は目を覚ました。
ヴォルフラムの命は、助かった。
だがその安堵と引き換えに、私の体は悲鳴を上げていた。無理な逃避行による疲労、張り詰めていた糸が切れた反動、そして未知なる力を使った消耗。全身に鉛を詰め込まれたように重く、燃えるような熱に浮かされた体は、しばらくの間、私を寝台に縫い付けた。
「……リナ様。お薬の時間です」
絞り出すようなヴォルフラムの声。
「……リナ。無理しないで、今日はゆっくり休むのよ」
冷たい布当てが額に乗せられる。セラが案じるように囁くその目元には、夜通し駆けてきた疲れが色濃く滲んでいた。
もはや私の「保護者」と化した二人が、寝台の両脇につきっきりで世話を焼いてくれる。だが、その至れり尽くせりの看病も、私の焦りを癒してはくれない。
時間がない。
私がこうして身動き一つ取れない間にも、世界は刻一刻と動いているのだ。
「……クラウスさん」
熱で霞む視界の中、枕元に控える影にか細い声をかける。
「……例のお客様は、お呼びできましたか?」
「はっ。……いつでも」
控えていたクラウスが、静かに、しかし力強く頷いた。
彼らを待たせていたのは、この庵から少し離れた別の小屋だ。ライナーの部下が周囲を固めているが、それは監禁のためではない。本気を出されれば、食い止めることなど不可能だからだ。あくまでも「お願い」して、そこにいてもらっているに過ぎない。
やがて、庵の戸が軋む音がした。
逆光の中に、二つの人影が浮かび上がる。
『剣聖』ハヤトは居心地悪そうに視線を彷徨わせ、『聖女』マリアは品定めするような、それでいて好奇心に満ちた眼差しを私に向けていた。
燃えるように熱い体。ぼうっとする頭。それでも私は、意識の糸を必死に手繰り寄せた。
「……ハヤトさん」
途切れ途切れの息で、言葉を紡ぐ。
「……ただ強いだけの、お兄ちゃんなんて、ちっとも、かっこよくありませんよ……」
「……は?」
虚を突かれたハヤトが、間の抜けた声を漏らした。
「本当に強い人は……誰にも知られず、正しいことをする人です。……民を苦しめる悪徳貴族を討つ、正体不明の英雄の方が……ずっと、ずっと、カッコいいと思いませんか?」
子供の戯言のような、しかし彼の本質を射抜く言葉。ハヤトは完全に言葉を失っている。
そこへ隣のグランが、面白がるように追い打ちをかけた。
「そうね。もはや、あなたの王国での評判は覆せない。そして、帝国では憎き敵。……でも、影の英雄としてなら、やり直す道はありそうじゃない? それだけの力があるんだから」
「そ、そうか……秘密の、ヒーロー……」
呟くハヤトの目に、少年のような光が宿り始める。
「……そっちの方が、カッコいい、かもな……」
(……単純で、助かった)
私は内心で安堵の息を漏らした。
次に、マリアに向き直る。彼女はまだ、値踏みするような視線を私から外さない。
「マリアさん。……あなたも気づいているはずです。この国は、もう沈む」
私は断言した。
「沈みゆく泥船の上で女王様を気取るより、新しい船を造る手伝いをし、その船の『聖女』として喝采を浴びる方が……ずっと、面白そうだとは思いませんか?」
挑発的な、しかし彼女の自尊心を的確にくすぐる言葉。
マリアの凍てついていた表情が、ふっと緩んだ。その唇に、妖艶な笑みが浮かぶ。
「……ふふ。なるほどね。……確かに、そちらの方が面白そう。それは、第三王子が私を受け入れるということかしら?」
◇◆◇
その頃、王都とヴェネツィアでは、最後の奔流が始まっていた。
ライナーとセラが指揮する『影の部隊』は、アルフォンス王子を旗印に反王宮派貴族を完全に掌握。
一方、ヴェネツィア連合もまた二つに割れていた。ロベール伯爵を支援し内乱の継続を目論む「既得権益派」。そして、この改革の波に乗り、帝国との新たな商流を掴むべく宰相と極秘に接触した「新興勢力派」。
全ての駒は、盤上に揃った。
あとは王が、最後の一手を打つだけ。
私は熱い指先で、枕元の『囁きの小箱』を探り、そっと握りしめる。
ひんやりとした硬質な感触が、燃えるような体とは対照的に、私の意識を冴え渡らせた。
庵の静寂が、これから始まる嵐の前の静けさを告げていた。