第86話:『忠誠の盾と、涙の奇跡』
乾いた土の匂いを巻き上げ、二頭の馬が街道を疾走する。
鞍上のヴォルフラムの瞳には、焦燥と怒りの焔が揺らめいていた。一刻、一秒が、主君の命を削っていくように感じられた。隣を駆けるゲッコーは鉄仮面のような無表情を崩さないが、その手綱を握る指の白さが、内なる激情を物語っている。
「――見えた!」
ヴォルフラムの鋭い声が、熱風を切り裂いた。
陽炎の向こう、揺らめくように逃げる黒い馬車の影。ヴェネーリアのハイエナどもだ。
獲物を捉えた狼のように、二人の呼吸がぴたりと合った。
ゲッコーが手綱をわずかに引き、ヴォルフラムが前に出る。二騎は音もなく左右に分かれ、馬車の両脇から音を殺して肉薄していく。心臓を叩く蹄の音だけが、静かなる狩りの始まりを告げていた。
「――何だ、貴様ら!」
異変に気づいた御者の男が、驚愕に目を見開く。
その問いに答える代わりに、ゲッコーが動いた。
疾走する馬の背を強く踏みしめ、黒い影が宙を舞う。空中でしなやかに身を捻り、強靭なバネと化したその体から、鋼のような踵が叩き込まれた。
ゴッ、と骨が砕ける鈍い音が響き、御者の男は操り人形のように吹き飛ぶ。言葉を発する間もなく地面を転がり、動かなくなった。
主を失った馬車は狂ったように蛇行し、勢いそのままに街道脇のぬかるみへ車輪を食い込ませる。木材が軋む断末魔の悲鳴を上げ、馬車は大きく傾いて停止した。
「リナ様!」
ヴォルフラムは馬から転がり落ちるように飛び降り、馬車の扉に手をかける。だが、内側から閂が掛かっていた。
躊躇は一瞬。彼女は扉を掴むと、全身の力を込めてこじ開けた。
バキリ、と蝶番が捻じ切れ、木片が飛び散る。
そこにいたのは、熱に浮かされながらもヴォルフラムを認め、安堵に瞳を揺らすリナ。
そして、車内の反対側でた立ち上がりながら何かを取り出そうとしている、酒場の主人の姿だった。
「……ここまで、か」
男は追い詰められた獣の目で、ヴォルフラムを睨みつける。その目には理性の光はなく、ただ絶望と狂気だけが渦巻いていた。
「だが、ただでは死なん! このガキも道連れだ!」
絶叫と共に、唾が飛ぶ。
リナの白い喉元に向かって、鈍く光る銀の刃が突き出された。
時間が、引き伸ばされる。
リナの恐怖に歪む顔、男の狂気の笑み、そして迫る刃の冷たい軌跡。そのすべてが、ヴォルフラムの瞳に焼き付いた。
「――させんッ!!」
声を発するより先に、体が動いていた。
地面を蹴る音さえ置き去りにして、リナと男の間にその身を滑り込ませる。
――ザシュッ。
肉を抉る、濡れて生々しい音が響いた。
ヴォルフラムの背中に、熱い鉄の杭を打ち込まれたような衝撃が走る。刃が皮膚を裂き、筋肉を断ち、骨に当たって止まる感触。
「ぐ……うぅっ!」
口から漏れたのは、獣のような呻き声。視界が赤く染まり、鉄の匂いが鼻をついた。
だが、彼女の闘志は消えなかった。
脇腹を抉る灼熱の痛みさえも燃料にして、その瞳が爛と燃え上がる。
刺された勢いのまま男の懐に深く潜り込むと、全体重を乗せた渾身の肘鉄を鳩尾へと叩き込んだ。
ゴシャリ、と肉を打つ音とは明らかに違う、骨が砕ける鈍い音が響いた。
男の肺から空気が押し出される苦悶の音が漏れる。ヴォルフラムはそのまま男の巨体を押し込む形で、そのまま背後の扉まで吹き飛ばした。
轟音。
二人の体重と衝撃に耐えきれず、蝶番を引きちぎって外へと弾け飛ぶ。
もつれ合ったまま、二人は砕けた木片と共に転がり出た。男は白目を剥いて短い痙攣を起こすと、やがて中身のない袋のように沈黙した。
「……ヴォルフラムさん!」
粉塵が舞う破壊された戸口から、リナの悲鳴が響く。
男の上に倒れ込み、浅く荒い息を繰り返しながら、ヴォルフラムは顔を上げた。脇腹から溢れる血で汚れた唇の端を、無理やり引き上げてみせる。
「……ご心配、なく……リナ様……。……この、程度……」
その声は、ひどくかすれていた。
言葉は続かなかった。その顔から急速に血の気が失せ、傷口から溢れる朱が、彼女の命を砂時計のように削っていくのがわかった。
「……まずい……!」
ゲッコーが駆け寄るが、もう間に合わない。ヴォルフラムの体から力が抜け、ずるずるとリナの腕の中へ倒れ込んでくる。
「……リナ……様……。……ご無事で……よかった……」
その瞳から、光が消えかけていた。
「……嫌だ……」
唇から、か細い声が漏れる。
「嫌だ、ヴォルフラムさん!」
熱い涙が頬を伝い、彼女の冷たくなっていく顔にぽつりと落ちた。無力感。絶望感。軍師としてどれだけ策を弄そうと、今、この腕の中で失われようとしている一つの命を、救うことができない。
(……助けて……誰か……)
その時。脳裏に、あの黒い岩に刻まれた言葉が稲妻のように閃いた。
祈りの言の葉。精霊への呼びかけ。
もはや理屈ではなかった。ただ、彼女を救いたい。その一心で、リナは祈った。
ヴォルフラムの傷口に震える手をかざし、失われた言葉を紡ぐ。
「――《大いなる母よ。水の御霊よ。どうか、この尊き命の灯火が消えぬよう。その大いなる癒やしの力で、お救いください》」
瞬間。
リナの体から、温かく優しい青白い光が奔流となって溢れ出した。
真昼の陽光さえ霞むほどの、生命の輝き。光はヴォルフラムの体をそっと包み込み、どす黒く染まっていた傷口が、まるで朝霧のように掻き消えていく。裂かれた肉が繋がり、真新しい皮膚が再生していく。青ざめた頬に、ゆっくりと血の気が戻る。
やがて光が収まった時、ヴォルフラムが静かにその瞼を開いた。
「……リナ……様……? わ、私は……?」
何が起きたのか分からず、戸惑う瞳がリナを映す。
リナは、自分が何をしたのかも理解できないまま、ただ助かったという安堵に突き動かされ、彼女の胸に顔をうずめた。そして、堰を切ったように泣きじゃくる。
「……よかった……。よかった……! ヴォルフラムさん……! 死んじゃうかと、思った……!」
「……リナ様……」
ヴォルフラムは状況が飲み込めないまま、リナの小さな頭を無意識に、優しく撫でる。
「……大丈夫です……。もう、泣かないで……」
その温かい手。その優しい声。
その瞬間、リナは自分が彼女に守られていたのだと、改めて実感した。
そしてヴォルフラムもまた、少しして全てを理解した。自分が刃に倒れ、死の淵をさまよい、今、目の前で泣きじゃくるこの小さな主君が、確かにここにいて温かい、ということを。
奇跡がどう起きたかなど、もはや些末なことだった。
命を賭して守ろうとした、か弱く気高い主君が、無事で自分の腕の中にいる。
その事実だけで、十分だった。
「……え……?」
張り詰めていた気持ちの糸が、ぷつりと切れた。
大きな瞳から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちる。それはやがて嗚咽となり、普段の彼女からは想像もつかないような、子供じみた大泣きへと変わっていった。
「……リナさまぁぁぁぁ……! よ、よかった……! 本当に、ご無事で……! うわああああああん!」
主君と騎士の立場は逆転し、ただ二人の少女が抱き合って泣いている。
その奇妙で、しかし何よりも美しい光景を、真昼の太陽が眩しく照らし出していた。
◇◆◇
感動的な再会のすぐそばで、ゲッコーはただ一人、淡々と仕事をこなしていた。
気を失っている男たちを、彼らが使っていた縄で手際よく縛り上げる。口に布を詰め、決して声が出せぬように。
次に、黒塗りの馬車を検分し、ヴェネーリア連合の商会のものと示す書類を無言で懐にしまう。
そして最後に、馬の鞍から小さな角笛を取り出すと、空気を鋭く三度、震わせた。
近くに潜む『影の部隊』への合図。
――任務完了。ただし、要回収物アリ。
全ての後処理を終えた彼は、ようやく振り返り、まだ抱き合って泣いている二人の姿を見つめた。
その傷だらけの無表情な顔に、ほんの微かに、誰にも気づかれぬほどの笑みが浮かんだように見えた。




