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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
第六章:『さまよえない軍師と、帝国の怒り』

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第86話:『忠誠の盾と、涙の奇跡』


乾いた土の匂いを巻き上げ、二頭の馬が街道を疾走する。

鞍上のヴォルフラムの瞳には、焦燥と怒りの焔が揺らめいていた。一刻、一秒が、主君の命を削っていくように感じられた。隣を駆けるゲッコーは鉄仮面のような無表情を崩さないが、その手綱を握る指の白さが、内なる激情を物語っている。


「――見えた!」


ヴォルフラムの鋭い声が、熱風を切り裂いた。

陽炎の向こう、揺らめくように逃げる黒い馬車の影。ヴェネーリアのハイエナどもだ。


獲物を捉えた狼のように、二人の呼吸がぴたりと合った。

ゲッコーが手綱をわずかに引き、ヴォルフラムが前に出る。二騎は音もなく左右に分かれ、馬車の両脇から音を殺して肉薄していく。心臓を叩く蹄の音だけが、静かなる狩りの始まりを告げていた。


「――何だ、貴様ら!」


異変に気づいた御者の男が、驚愕に目を見開く。

その問いに答える代わりに、ゲッコーが動いた。

疾走する馬の背を強く踏みしめ、黒い影が宙を舞う。空中でしなやかに身を捻り、強靭なバネと化したその体から、鋼のような踵が叩き込まれた。


ゴッ、と骨が砕ける鈍い音が響き、御者の男は操り人形のように吹き飛ぶ。言葉を発する間もなく地面を転がり、動かなくなった。

主を失った馬車は狂ったように蛇行し、勢いそのままに街道脇のぬかるみへ車輪を食い込ませる。木材が軋む断末魔の悲鳴を上げ、馬車は大きく傾いて停止した。


「リナ様!」


ヴォルフラムは馬から転がり落ちるように飛び降り、馬車の扉に手をかける。だが、内側から閂が掛かっていた。

躊躇は一瞬。彼女は扉を掴むと、全身の力を込めてこじ開けた。

バキリ、と蝶番が捻じ切れ、木片が飛び散る。


そこにいたのは、熱に浮かされながらもヴォルフラムを認め、安堵に瞳を揺らすリナ。

そして、車内の反対側でた立ち上がりながら何かを取り出そうとしている、酒場の主人の姿だった。


「……ここまで、か」

男は追い詰められた獣の目で、ヴォルフラムを睨みつける。その目には理性の光はなく、ただ絶望と狂気だけが渦巻いていた。

「だが、ただでは死なん! このガキも道連れだ!」


絶叫と共に、唾が飛ぶ。

リナの白い喉元に向かって、鈍く光る銀の刃が突き出された。

時間が、引き伸ばされる。

リナの恐怖に歪む顔、男の狂気の笑み、そして迫る刃の冷たい軌跡。そのすべてが、ヴォルフラムの瞳に焼き付いた。


「――させんッ!!」


声を発するより先に、体が動いていた。

地面を蹴る音さえ置き去りにして、リナと男の間にその身を滑り込ませる。


――ザシュッ。


肉を抉る、濡れて生々しい音が響いた。

ヴォルフラムの背中に、熱い鉄の杭を打ち込まれたような衝撃が走る。刃が皮膚を裂き、筋肉を断ち、骨に当たって止まる感触。

「ぐ……うぅっ!」

口から漏れたのは、獣のような呻き声。視界が赤く染まり、鉄の匂いが鼻をついた。


だが、彼女の闘志は消えなかった。

脇腹を抉る灼熱の痛みさえも燃料にして、その瞳が爛と燃え上がる。

刺された勢いのまま男の懐に深く潜り込むと、全体重を乗せた渾身の肘鉄を鳩尾へと叩き込んだ。


ゴシャリ、と肉を打つ音とは明らかに違う、骨が砕ける鈍い音が響いた。

男の肺から空気が押し出される苦悶の音が漏れる。ヴォルフラムはそのまま男の巨体を押し込む形で、そのまま背後の扉まで吹き飛ばした。


轟音。

二人の体重と衝撃に耐えきれず、蝶番を引きちぎって外へと弾け飛ぶ。

もつれ合ったまま、二人は砕けた木片と共に転がり出た。男は白目を剥いて短い痙攣を起こすと、やがて中身のない袋のように沈黙した。


「……ヴォルフラムさん!」

粉塵が舞う破壊された戸口から、リナの悲鳴が響く。

男の上に倒れ込み、浅く荒い息を繰り返しながら、ヴォルフラムは顔を上げた。脇腹から溢れる血で汚れた唇の端を、無理やり引き上げてみせる。

「……ご心配、なく……リナ様……。……この、程度……」

その声は、ひどくかすれていた。

言葉は続かなかった。その顔から急速に血の気が失せ、傷口から溢れる朱が、彼女の命を砂時計のように削っていくのがわかった。


「……まずい……!」

ゲッコーが駆け寄るが、もう間に合わない。ヴォルフラムの体から力が抜け、ずるずるとリナの腕の中へ倒れ込んでくる。

「……リナ……様……。……ご無事で……よかった……」

その瞳から、光が消えかけていた。


「……嫌だ……」

唇から、か細い声が漏れる。

「嫌だ、ヴォルフラムさん!」

熱い涙が頬を伝い、彼女の冷たくなっていく顔にぽつりと落ちた。無力感。絶望感。軍師としてどれだけ策を弄そうと、今、この腕の中で失われようとしている一つの命を、救うことができない。


(……助けて……誰か……)


その時。脳裏に、あの黒い岩に刻まれた言葉が稲妻のように閃いた。

祈りの言の葉。精霊への呼びかけ。

もはや理屈ではなかった。ただ、彼女を救いたい。その一心で、リナは祈った。


ヴォルフラムの傷口に震える手をかざし、失われた言葉を紡ぐ。


「――《大いなる母よ。水の御霊よ。どうか、この尊き命の灯火が消えぬよう。その大いなる癒やしの力で、お救いください》」


瞬間。

リナの体から、温かく優しい青白い光が奔流となって溢れ出した。

真昼の陽光さえ霞むほどの、生命の輝き。光はヴォルフラムの体をそっと包み込み、どす黒く染まっていた傷口が、まるで朝霧のように掻き消えていく。裂かれた肉が繋がり、真新しい皮膚が再生していく。青ざめた頬に、ゆっくりと血の気が戻る。


やがて光が収まった時、ヴォルフラムが静かにその瞼を開いた。

「……リナ……様……? わ、私は……?」

何が起きたのか分からず、戸惑う瞳がリナを映す。


リナは、自分が何をしたのかも理解できないまま、ただ助かったという安堵に突き動かされ、彼女の胸に顔をうずめた。そして、堰を切ったように泣きじゃくる。

「……よかった……。よかった……! ヴォルフラムさん……! 死んじゃうかと、思った……!」


「……リナ様……」

ヴォルフラムは状況が飲み込めないまま、リナの小さな頭を無意識に、優しく撫でる。

「……大丈夫です……。もう、泣かないで……」


その温かい手。その優しい声。

その瞬間、リナは自分が彼女に守られていたのだと、改めて実感した。


そしてヴォルフラムもまた、少しして全てを理解した。自分が刃に倒れ、死の淵をさまよい、今、目の前で泣きじゃくるこの小さな主君が、確かにここにいて温かい、ということを。

奇跡がどう起きたかなど、もはや些末なことだった。

命を賭して守ろうとした、か弱く気高い主君が、無事で自分の腕の中にいる。

その事実だけで、十分だった。


「……え……?」

張り詰めていた気持ちの糸が、ぷつりと切れた。

大きな瞳から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちる。それはやがて嗚咽となり、普段の彼女からは想像もつかないような、子供じみた大泣きへと変わっていった。


「……リナさまぁぁぁぁ……! よ、よかった……! 本当に、ご無事で……! うわああああああん!」


主君と騎士の立場は逆転し、ただ二人の少女が抱き合って泣いている。

その奇妙で、しかし何よりも美しい光景を、真昼の太陽が眩しく照らし出していた。


◇◆◇


感動的な再会のすぐそばで、ゲッコーはただ一人、淡々と仕事をこなしていた。

気を失っている男たちを、彼らが使っていた縄で手際よく縛り上げる。口に布を詰め、決して声が出せぬように。

次に、黒塗りの馬車を検分し、ヴェネーリア連合の商会のものと示す書類を無言で懐にしまう。


そして最後に、馬の鞍から小さな角笛を取り出すと、空気を鋭く三度、震わせた。

近くに潜む『影の部隊』への合図。

――任務完了。ただし、要回収物アリ。


全ての後処理を終えた彼は、ようやく振り返り、まだ抱き合って泣いている二人の姿を見つめた。

その傷だらけの無表情な顔に、ほんの微かに、誰にも気づかれぬほどの笑みが浮かんだように見えた。


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― 新着の感想 ―
もうヴォルちゃんはリナちゃんの虜! 助かってよかったね(*´ω`*)
個人的にはここで仲間にひとり死んで欲しい。 ヴァルフラムは絶命前だったのでリナの魔法で救うことができたが、既に生き絶えた影の男は救えない。 もちろんリナはこちらも治療しようとするが、傷が深すぎて、治…
ゲッコーさんの仕事人っぷりが好き♡
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