第9話:『空っぽのベッドと小さな祈り』
帝都の空は、東部戦線の鉛色の空とは違い、抜けるように青く澄んでいた。
聖リリアン孤児院では、いつもと変わらない、しかし少しだけ静かな一日が始まろうとしていた。
リナが、あの空色のワンピースを着て、立派な馬車に乗って旅立ってから、五日が経っていた。
彼女がいつも座っていた食堂の窓際の席は、ぽっかりと空いたままだ。誰も、そこに座ろうとはしなかった。図書室の隅には、リナが何度も読んでくれた古代語の絵本が、主を失って静かに置かれている。そして何より、大部屋の片隅にあった彼女の小さなベッドが、綺麗に整えられたまま空っぽになっている光景は、子供たちの心に小さな、しかし確かな寂しさを刻みつけていた。
「ねえ、院長先生。リナ、いつ帰ってくるの?」
一番年下のアンナが、院長の古いエプロンの裾をくい、と引っ張って尋ねる。
「リナが言ってた、蜂蜜のケーキ、まだかなぁ?」
その無邪気な問いに、院長は胸が締め付けられるのを感じながら、優しくアンナの頭を撫でた。
「そうね。きっと、もうすぐお手紙が届きますよ」
子供たちは、リナが「お貴族様みたいになった」のだと信じている。帝都のどこか安全で華やかな場所で、美味しいものをたくさん食べているのだと。院長は、その無邪気な夢を壊すことができなかった。
リナと一番仲の良かった弟分のトムは、少し元気がなかった。彼は最近、口数が減り、一人で図書室の隅にうずくまっていることが多くなった。その手には、あの古代語の絵本が握られている。彼は、リナのように物語を紡ごうと、必死で意味の分からない文字の羅列を目で追っていた。その姿は、あまりにも健気で、痛々しかった。
年長の子供たちは、リナが向かった場所の本当の意味を、少しずつ理解し始めていた。市場で聞く大人たちの会話。「東部戦線は泥沼だ」「また大きな作戦があるらしい」「今度こそ、勝てるのかねぇ」。そんな不吉な言葉の断片が、彼らの心に重くのしかかる。リナは、お菓子を食べに行ったのではない。戦争をしに行ったのだ。その事実に気づいた者は、誰に言うでもなく、ただ黙って俯いていた。
夜。子供たちが寝静まった後、院長は一人、自分の部屋で机に向かっていた。
机の上には、リナがたった一日で整理してくれた、あの帳簿が置かれている。無駄が削られ、効率化された仕入れルートが記されたその羊皮紙は、今やこの孤児院の生命線だった。それを見るたびに、院長はリナの非凡な才能を思い出し、そして同時に、あの子を危険な場所へ送り出してしまったという罪悪感に苛まれるのだった。
(私の決断は、本当に正しかったのだろうか……。あの子にとって、一番の幸せだったのだろうか……)
答えの出ない問いに、院長の心は軋みを上げる。彼女は席を立つと、ふらふらとした足取りで、院内にある小さな礼拝堂へと向かった。
冷たい石の床に膝をつき、固く両手を組む。
「おお、神よ。慈悲深き聖リリアンよ。どうか、あの子をお守りください」
声が、震える。
「あの子は、私たちの光でした。あの子がいてくれたから、私たちはこの苦しい中でも、笑うことができました。あの子の未来に、どうか幸あらんことを……」
頬を、熱い涙が伝う。
「そして……もし、もしも願いが聞き届けられるのなら……一日も早く、あの子がこの場所に、あの太陽のような笑顔で、帰ってこられますように……」
祈りを終え、涙を拭った院長が礼拝堂を出ると、一人のシスターが心配そうな顔で立っていた。その手には、小さな、しかしずっしりと重い革袋が握られている。
「院長先生。先ほど、軍の伝令の方がこれを……」
「軍から……?」
院長は、恐る恐るその革袋を受け取った。中には、驚くほど多くの銀貨と、そして一枚、丁寧に折りたたまれた羊皮紙が入っていた。
それは、リナからの、初めての給金だった。
震える手で、羊皮紙を広げる。そこには、少しインクが滲んだ、見慣れたリナの丸い字が並んでいた。
『院長先生、シスターの皆さん、そして孤児院のみんなへ。
お元気ですか? 私は、とても元気です。
ここは少し寒いけれど、毎日温かいご飯をお腹いっぱい食べています。
お仕事は少し難しいけれど、とても優しい人たちに囲まれて、大切にしてもらっています。
だから、何も心配しないでください。
これは、私のお給料の一部です。
みんなで、お肉の入った温かいシチューをたくさん作って、食べてください。
また、お手紙を書きます。
リナより』
最前線であること、危険な任務についていることなど、一言も書かれていない。ただ、みんなを安心させようとする、懸命な優しさだけが、そこにあった。
「……リナ……」
院長は、その手紙を強く胸に抱きしめた。温かい涙が、あとからあとから溢れ出してくる。リナは、遠い場所で、確かに自分の足で立ち、懸命に生きている。その事実が、何よりも院長の心を救った。
翌日の孤児院の食卓には、何ヶ月ぶりだろうか、本物の肉の塊がゴロゴロと入った、湯気の立つシチューが並んだ。
「わーっ!」「お肉だ!」「美味しい!」
子供たちの歓声が、久しぶりに、孤児院の天井いっぱいに響き渡った。その光景を、院長は涙で滲む目で、しかし満面の笑みで見守っていた。
その頃、東部戦線。
決戦の朝。冷たい霧が立ち込める中、フードを目深にかぶったリナは、遠い帝都の空をじっと見上げていた。
そして、誰にも聞こえない声で、ぽつりと呟いた。
「……みんな、ちゃんと、食べてるかな」
その小さな肩に、帝国の命運が懸かっていることなどおくびにも出さず。彼女の心は、ただ、愛する者たちのささやかな幸福を願っていた。
夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。