第85話:『ハイエナの嗅覚と、忠犬の追跡』
森の麓、痩せた土にへばりつくように点在する農村。
その一番外れにある小さな山小屋の中、私は久しぶりに人の温もりに触れていた。
高熱に浮かされ、霞む意識。
誰かの手が、額の濡れ布を何度も冷たいものに取り替えてくれる。不器用な手つきで、匙に乗せた滋養のあるスープが、そっと口元へ運ばれる。
「……お名前は……?」
「……リナ……」
「そう、リナちゃん。……大丈夫。もう大丈夫だからね。ゆっくりお休み……」
優しい声。
看病してくれているのは、この家の母親と、私と同じくらいの歳の痩せた娘だった。
ささやかで、脆いガラス細工のような平穏。
だが、その平穏は既に、貪欲なハイエナの嗅覚に捉えられていた。
◇◆◇
昼下がりから夕暮れへ。
村の酒場にも、一つの噂が蜘蛛の巣を張るように流れていく。
「森で倒れていた身なりの良い少女が、端の家に運び込まれたらしい」
その囁きを、酒場の主人――『ヴェネツィア連合』の末端情報員である男は、聞き逃さなかった。
昼過ぎに届いたばかりの伝令が、脳裏を火花のようにかすめる。
『帝国側の有力者、昨夜何者かに連れ去られた模様。可能であるなら優先的に確保せよ』
本部からの、緊急伝令だった。
(……森で倒れていた、身なりの良い少女……このタイミングでか? まさか。だが万が一、本部が躍起になって探しているあの『獲物』だとしたら……)
どくん、と心臓が大きく跳ねる。喉がカラカラに乾いた。
本部に指示を仰ぐという選択肢は、即座に思考から消し去る。確認など取れば、手柄は上層部に横取りされるだけだ。
失敗しても、ただの迷子の子供。だが、もし「当たり」なら……。莫大な報酬と、泥濘から抜け出すための道が拓ける。
男はにやりと口の端を吊り上げ、卑しい光を瞳に宿した。この千載一遇の好機に、全てを賭ける。その夜、彼は金で雇った数人の屈強な傭兵と杯を交わし、獲物を捕らえるための筋書きを練り上げた。
◇◆◇
翌朝。
村がまだ冷たい朝靄に沈む刻、リナを保護した母娘の家の粗末な扉が、乱暴に叩かれた。
現れたのは、酒場の主人と傭兵たち。男は人の良い商人の笑みを顔に貼り付け、芝居がかった声を上げる。
「いやぁ、お嬢ちゃんを探しておりました! この子はリューンの大商会のお嬢様でしてね。森で道に迷われたと聞き、皆で心配しておりました。……さあお嬢様、お屋敷へお帰りなさい」
「え……?」
母娘が戸惑いの声を漏らす。
まだ熱の下がりきらない朦朧とした意識の中、私はその男の目が全く笑っていないことに気づいた。背筋を氷の指がなぞるような悪寒が走る。
(……まずい! こいつら……!)
最後の気力を振り絞り、声を上げた。
「……ち、違います……! 私はこの人たちを知りません……! やめてっ、助けて……!」
だが、か細い抵抗の声は、男の芝居がかったため息にかき消された。彼は心底困り果てたというように肩をすくめ、母娘に言い聞かせる。
「……やれやれ。ご覧の通り、お嬢様は今、お家出の真っ最中でして。少し我が儘が過ぎて、こんな目に遭われているのです。……さあお嬢様、もうおよしなさい。だから怖い目に遭うのですよ?」
あまりに尤もらしい口ぶりに、純朴な母娘は完全に信じ込んでいる。「まあ、そうでしたの」「お嬢様、いけませんわ……」。
「やめて! 離して!」
男たちが毛布を手にじりじりと近づく。必死に抵抗するが、熱に浮かされた子供の力など、屈強な男たちの前では木の葉のように無力だった。
「ご協力、感謝します。これはほんのお礼です」
男は母娘の手に数枚の銀貨を握らせると、私を担ぎ上げ、外に待たせていた黒塗りの馬車へ乱暴に放り込む。
「お屋敷に着けば、すぐにお医者様が診てくださいますからね」
最後にそんな白々しい言葉を残し、扉が閉められた。
母娘はただ呆然と、黒い馬車が朝靄の中へ消えていくのを見送るしかなかった。遠ざかる馬車から聞こえる、リナの小さな抗議の声が、いつまでも耳に残っていた。
◇◆◇
リナが連れ去られた、その日の朝。
森の中、彼女が倒れていた山小屋に二つの影が舞い降りた。ヴォルフラムとゲッコー。本隊と別れ、折れた小枝、僅かな足跡という微かな痕跡だけを頼りにここまで辿り着いた、追跡の専門家たちだった。
「……ここだ」
ゲッコーが小屋の中を一瞥し、短く呟く。争った形跡はない。だが、誰かがここで休息し、そして運び出された痕跡が、濃密に空気に残っていた。
「……リナ様はここに居た……!間違いない!」
ヴォルフラムが悔しげに唇を噛む。
ゲッコーは冷静に小屋の周囲を観察する。
「麓の村の猟師小屋か。ここから下りる道は三つ。……残された薬草の種類から、目的の村は……」
地図を広げた彼は、一つの小さな村に印をつけた。
「……『ミルラ村』。可能性が最も高い」
◇◆◇
それから、わずか一刻後。まだ日も高く昇りきっていない。
ミルラ村に辿り着いたヴォルフラムとゲッコーは、疲れ切った旅人を装い、井戸端で洗濯をする女たちに聞き込みを始めた。そして、すぐに求める情報を手に入れる。
「ああ、そういやパーラさんちの親子が昨日、森で倒れていた綺麗な嬢ちゃんを連れて帰ってきたって……」
(……見つかった!)
ヴォルフラムの目に光が宿る。だが、女の次の言葉がその光を凍てつかせた。
「……だけどその嬢ちゃんなら、本当の家族が迎えに来て、リューンの方へ帰っていったわよ。黒塗りの立派な馬車でね」
「――なっ……!?」
絶句したヴォルフラム。タッチの差で、間に合わなかった?
二人はパーラと呼ばれた母娘の家へ駆け込み、怯える二人から全てを聞き出した。
「黒塗りの馬車……」「天秤の紋章……」
ゲッコーはその特徴から、犯人が『ヴェネツィア連合』の手先だと即座に断定した。
己のわずかな遅れが主君を再び危険に晒した。ヴォルフラムは唇から血が滲むほど強く噛み締める。その瞳にもはや迷いはなく、ただ主君を救い出すという燃えるような決意だけが宿っていた。
「……ゲッコー殿! 馬を!」
ゲッコーは無言で頷き、村の馬小屋から最も足の速そうな馬を半ば強引に買い取る。そして残った『影の部隊』の一員に短く命じた。
「クラウス殿に伝えろ。『ハイエナ、獲物を横取りセリ。我ラ、これヨリ追跡ヲ再開ス』、と」
ヴォルフラムとゲッコー。二騎の馬が、黒い馬車が消えたリューン街道を疾風の如く猛追していく。
その姿は、もはやただの軍人ではない。
主を奪われた、二匹の忠実な狼だった。
物語は、息もつかせぬ追跡劇へと突入する。真昼の太陽が、彼らの背を焦がすように照りつけていた。