第84話:『繋がる希望と、小さな灯火』
木漏れ日が地面に光の斑点を描いては揺れる。鳥のさえずりだけが響く『嘆きの森』。
その昼下がりの穏やかな静寂は、そこに集った一団の張り詰めた空気とは、あまりに不釣り合いだった。
輪の中心で、グランはクラウスから借り受けた『囁きの小箱』を握りしめていた。冷たい金属の感触が、汗の滲む掌に突き刺さる。
「――アルフォンス様。聞こえますか」
『……グランか! 無事か!?』
通信機の向こうから響く声に、張り詰めた緊張とわずかな安堵が滲む。
「はい。……リナさんはここにはいませんでした。ですがハヤトさんたちと合流し、彼女の生存は確認できています。これから捜索を開始します」
グランはヴォルフラムとの一悶着といった不要な感情を削ぎ落とし、ただ事実だけを冷静に告げる。
『……そうか……! 生きているんだな!』
「ええ。必ず見つけ出します。……あなたも気を抜かないでください。ライナー隊長が間もなくそちらへ到着するはずです」
『……分かった。……グラン。頼んだぞ』
短い通信を終え、グランは浅く息を吐いた。
そして改めて、そこにいる奇妙な顔ぶれを見渡す。
木の幹に気だるげに寄りかかる、元・英雄。
やれやれと、それに冷ややかな視線を投げかける、聖女。
ギリ、と拳を握りしめ、今にも飛びかからんばかりの怒りを燻らせる、帝国の女騎士。
そして影のように佇み、周囲への警戒を怠らない、帝国の諜報員たち。
(……なんて、ちぐはぐなチームなのかしら)
だが、今はこのバラバラの駒で動くしかない。
「――行きますよ!」
グランの凛とした声が、長閑な森の空気を鋭く切り裂いた。
◇◆◇
その日の夕刻。
西の空が燃えるような茜色に染まり、木々の影が長く伸び始める頃。賢者の庵の静寂を破り、乾いた土煙を巻き上げて一隊の騎馬がなだれ込んだ。
先頭に立つのは、黒い潜入装束に身を包んだライナー・ミルザ。土埃にまみれた鋼のような貌には、休むことなく馬を駆り続けてきた極度の疲労と、主君を案じる焦りが色濃く刻まれている。
「――アルフォンス殿下……!」
庵から姿を現したアルフォンスを認めるや、ライナーは馬から飛び降り、その場に深く片膝をついた。
「……ライナー。……無事であったか」
かつての数少ない理解者の顔を見て、アルフォンスの張り詰めていた表情がわずかに緩む。多くの言葉は必要なかった。互いの瞳に映る無事な姿が、何より雄弁だった。
庵の中、カンテラの頼りない灯りの下、広げられた地図を囲んで状況の共有が始まる。
ライナーは、アルフォンスからリナの窮状とグランたちが捜索に向かったことを聞き、奥歯を強く噛みしめた。そして、リナの指示で水面下で進めていた布石を、静かに王子へと告げる。
「……殿下。『天翼の軍師』様の指示にて、既に王国内のいくつかの貴族とは接触を済ませてあります」
彼の指が、地図上の複数の領地をなぞっていく。
「彼らは皆、現体制に強い不満を抱く者たち。……殿下がお立ちになれば、必ずや我々の力となりましょう」
アルフォンスは、その周到な準備に息をのんだ。
帝国の軍師は、そしてこの忠実な軍人は、自分が決意を固めるずっと前から、未来を信じて動いてくれていたのだ。
「……分かった。ライナー、君も疲れているだろう。だが、休んでいる暇はない。すぐに我々もグランたちを追う」
「はっ!」
ライナーは力強く頷いた。新たな希望の光が、今まさにこの庵で一つになろうとしていた。
外では、夜の帳が静かに下り始めていた。
◇◆◇
その頃。
森の麓にある小さな農村。その一番端に立つ、一軒の家。
私は、深い水底から浮上するように、ゆっくりと意識を取り戻した。
(……ここ……どこ……?)
視界は霧がかかったように霞み、頭が熱でふわふわする。身体は鉛を流し込まれたように重く、指一本動かせない。肌に触れる毛布はごわごわしているが暖かく、額に置かれた濡れ布の冷たさが心地よかった。
私が身じろぎした気配に、枕元の小さな人影が動く。
私と同じくらいの歳の、痩せた少女だった。頬はこけ、着ている服も継ぎはぎだらけだが、大きな栗色の瞳だけが心配そうに私を覗き込んでいる。
少女は私の顔をじっと見つめ、やがてその小さな唇を開いた。
そして振り返り、部屋の奥に向かって、甲高い、けれど嬉しそうな声を張り上げる。
「――お母さーん! 女の子、目を覚ましたよー!」
その何の屈託もない声が。
絶望の森をさまよい歩いた私のささくれだった心に、温かいスープのように、じんわりと染み渡っていった。




