第82話:『森の中の、小さな逃亡者』
森は優しく、そして容赦がなかった。
昼間は木漏れ日が踊るように道を照らし、鳥のさえずりが心を和ませる。だが陽が落ちれば、闇がすべてを飲み込み、梢を揺らす風の音、どこか遠くで響く獣の吠え声が、容赦なく神経を削り取っていく。
小屋を飛び出して、どれほど経っただろう。
朦朧とする頭では、それすら定かではない。
とにかく進まないと。それだけを繰り返す。
乾いた喉を潤すのは、途中で水筒にくみ足した湧き水。硬い干し肉を無理やり喉の奥へと押し込み、かろうじて命を繋ぐ。幸いだったのは、この森に人を襲うような大型の獣の気配がないこと。偶然に感謝しながら、月明かりが頼りの夜道を、ただひたすらに足を前に運んだ。
疲労が鉛のように足に絡みつき、一歩ごとに地面に縫い付けられるようだ。
熱っぽい頭がぐらりと揺れ、視界が歪む。
(……だめだ……もう、一歩も……)
木の根に足を取られて倒れ込み、顔を上げた先に小さな小屋を見つけた。最後の力を振り絞って中に転がり込むと、糸が切れたように身体が崩れ落ちる。
薄れゆく意識の中、孤児院のみんなの顔が浮かんだ。
(……ごめんね……みんな……。お菓子、たくさん送るって、約束したのに……)
その言葉を最後に、私の意識は冷たい闇の底へと沈んでいった。
◇◆◇
朝の王都の古い寺院。その一室では、全く別の嵐が吹き荒れようとしていた。
「――それで? 私の大事な時間をわざわざ割かせてまで呼び出した、その緊急の用件とやらは何かしら、ハヤト様?」
聖女マリアは完璧な微笑みを顔に貼り付けたまま、温度のない声で問いかけた。
彼女は今、非常に忙しい。表向きは貧しい民への炊き出しと治癒活動に明け暮れる慈悲の聖女。その裏では、沈みゆく泥船のようなこの王国から脱出し、海の向こうの『聖都』へ渡りをつけるべく、着々と布石を打っている最中だ。
そんな重要な時期に、この脳天気な勇者は一体何の用か。
「お、おう……。いや、そのな……」
ハヤトは気まずそうに頭を掻き、視線を泳がせる。
「……例の帝国の軍師……捕まえたんだけどよ……」
カチャリ。
マリアがティーカップを置く、硬質な音が静寂に響いた。
完璧な微笑みが、ぴしりと凍りつく。
「……今、何と? 捕まえた? ……あなたが? 一人で? ……あの、軍師を?」
全く笑っていない瞳が、ハヤトを射抜く。
「ああ。まあ、成り行きでな」
ハヤトは得意げに胸を張るが、その自信はマリアの冷たい視線に晒され、すぐに萎んでいく。
「……ただ、その……なんだ……。実際に捕まえてみたらよ……」
彼はもごもごと口ごもり、言葉を探す。
「……ただの、ちっこいガキだったんだよ……。なんかもう、一気にやる気なくしちまってさ。王国もヤバそうだし、もうどうでもいいかな、なんて……」
しん、と痛いほどの沈黙が落ちる。
やがてマリアは天を仰いで深いため息をつき、その白い額を片手で押さえた。
(……何やってんのよ、このあんぽんたんは……!)
「――あなたねぇ……」
マリアの声は、嵐の前の海のように静かだった。
「私がどれだけ心を砕いて立ち回っているか、分かっているの!? その間にあなたは一体何を……!」
「いや、だから軍師を……」
「その軍師を捕まえてどうするつもりだったのよ! 計画は!? 目的は!? 何もないんでしょう!?」
「うっ……」
「挙句の果てに、ただの子供だったからもうどうでもいいですって!? ……本気で言っているの!?」
マリアは勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦る甲高い音が響く。
完璧な聖女の仮面は剥がれ落ち、そこには心底呆れ果て、激怒している一人の少女の顔があった。
「いい、ハヤト? よく聞きなさい」
彼女はテーブルに両手をつき、ハヤトの胸ぐらを掴まんばかりの勢いで身を乗り出す。
「その『ちっこいガキ』が本物の軍師だろうが偽物だろうが、もはやどうでもいいわ! 問題は、あなたが帝国の最重要人物を捕らえたという事実! これをどう利用するか! ……いえ、どう後始末をつけるか! 分かっているの!?」
その瞬間、マリアの瞳に怜悧な光が宿った。
彼女の頭の中で、恐るべき速度で損得勘定が始まっている。
(……待って。軍師が王国領内に? しかも捕縛されている? 正体は子供……? 訳が分からない。けれど、これは使い方によっては最大の切り札に……!)
「――もういいわ!」
彼女は決断した。
「うじうじ悩んでいる暇はない! その軍師がいる場所へ今すぐ行くわよ! 私がこの目で見て判断する!」
「え、あ、でも……」
「口ごたえしてないで! すぐに案内しなさい!」
マリアはハヤトの腕を掴むと、文字通り引きずるようにして部屋を飛び出した。
廊下で不審そうにこちらを見るシスターに、一瞬で完璧な聖女の笑みを向け、
「アイリスさんごめんなさい。急用ができましたので、後をお願いしますね」
と告げるやいなや、再び鬼の形相に戻ってハヤトの襟首を掴み直す。
聖女の純白の衣と、勇者の情けない悲鳴が、朝日の差し込む寺院の廊下へと消えていった。
もはやどちらが勇者で、どちらがお目付け役なのか分からない。