第81話:『剣聖の困惑と、空っぽの小屋』
幾重にも重なる木々の葉が月光を遮り、闇が支配する森の奥。
そこにその古びた小屋は、まるで世界から忘れ去られたかのように、ひっそりと佇んでいた。
かつてハヤト、マリア、そしてグラン。三人の転生者が身を寄せ合った、始まりの場所。
――ドサッ。
鈍い音と共に、ハヤトは小脇に抱えていた「獲物」を木の床へ乱暴に転がした。気を失っているフードの影。忌々しい『天翼の軍師』だ。
「……さて、と」
勝ち誇った声が、埃っぽい空気を震わせる。ハヤトの唇の端が、嘲るように吊り上がった。
「どんな醜い化け物がその下に隠れてるのか、拝んでやろうじゃねぇか……」
ためらいなく伸ばされた指がフードに絡みつき、次の瞬間、乱暴に引き剥がされた。
そして、ハヤトは息を呑み、その場に凍りついた。
天窓から差し込む、糸のように細い月光が、床に横たわる獲物の素顔を照らし出す。
そこにあったのは、彼が想像した老獪な軍師の顔でも、異形の化け物の顔でもない。
ただ、あどけない寝息を立てる、一人の少女の顔だった。
長い睫毛が落ちる影、ほんのりと色のついた唇、そして頬に残る幼い丸み。歳は、十にも満たないだろう。
「…………は?」
間の抜けた声が、自分の口から漏れた。
ハヤトは目をこすり、もう一度見つめる。だが何度見ても、そこにいるのはただの子供だ。
混乱した頭で、必死に記憶を手繰り寄せる。
あの国王と対等に渡り合った威厳に満ちた声。自分を完膚なきまでに打ち破った悪魔的な知謀。それと、この無防備な寝顔が、どうしても結びつかない。
「……お、おい」
思わず、その小さな肩をつつく。指先に伝わる感触は、あまりにもか細い。
「おい、起きろ。起きろって」
「……ん……」
うっすらと瞼が開かれ、少女――リナは、目の前のハヤトの顔を認めた瞬間、はっと息をのんだ。
蛇に睨まれた蛙のように、その体がガタガタと震えだす。床を擦って後ずさる姿は、怯えきった小動物そのものだ。
「……あ……! け、剣聖……ッ!」
必死で虚勢を張ろうとしているのだろう。だが、その瞳は恐怖に濡れ、小さな体は正直に震えている。
その、あまりに無力でか弱い姿を目にした瞬間。
ハヤトの心で燃え盛っていた復讐の炎が、冷水を浴びせられたかのように、すぅっと音を立てて消えていく。
(……なんだよ、これ……)
(俺は、こんなガキ相手に本気でキレて、追いかけ回してたのかよ……)
一気に全身の力が抜けていく。
何もかもが、馬鹿馬鹿しくなった。
「……はぁ……」
深いため息が、小屋の静寂に溶ける。ハヤトはゆっくりと立ち上がった。
「……いいか。ここは森のど真ん中だ。大人しくしてりゃ痛い目には遭わさん。……だから、大人しくしてろよ!」
そう言い捨てると、まるでその場から逃げるように、彼は軋む扉に手をかけた。
「……マリアは最近、王都の寺院にいたな……。とりあえず、あいつに相談すっか……」
苦々しい呟きを残し、ハヤトは夜の森へと姿を消した。
◇◆◇
ハヤトが去った後の静寂が、キーンという耳鳴りとなって私の思考を麻痺させる。
しばらくの間、私は圧倒的な暴力の記憶に縛られ、身動き一つ取れなかった。
冷たい、木の床の、感触が、背中に、じっとりと、張り付いている。死の匂いがまだ鼻の奥に残っている。足がガクガクと震え、力が入らない。
(……しっかりしろ。しっかりしろ、私……!)
強く頬をつねると、じわりと滲む痛みが麻痺した思考を叩き起こした。軍師としての冷静さが、恐怖という名の獣に食らいついていく。
(……考えろ。考えるんだ、リナ)
このままでは状況は好転しない。私はただの子供ではない。『天翼の軍師』として、利用価値は計り知れない。
まずは脱出。そして仲間との合流。
震える足を叱咤し、冷たい床から、体を、起こした。その瞬間、ずきりと頭の奥が痛んだ。体が熱い。倉庫で襲われた際にどこか打ったのだろう。
私は無意識に、あの岩に刻まれていた言葉を口ずさんでいた。
「<<我が身を苛む全ての傷よ、癒えよ>>」
ふわり、と体が温かい光に包まれる。
壁に叩きつけられた際にできた腕の擦り傷や、打撲の痛みが霧散していくのが分かった。
だが――体の内側から湧き上がる熱っぽさと倦怠感は、全く消えない。
(……ダメか……)
この力は外傷には効くが、疲労や病のような体調不良には作用しないらしい。まだ法則性が掴めない。今は、この不調と付き合いながら動くしかない。
ハヤトの帰還に怯えながら、小屋の中を慎重に見て回る。
幸い、ここは彼らのかつての隠れ家。棚の奥に干からびた肉と水の入った古い水筒を見つけた。そして壁には、おそらくグランが使っていたのだろう、護身用の小太刀が掛かっている。
それらを急いで身につけ、小屋の裏口からそっと外へ抜け出した。
ひやりとした夜の空気が肌を刺す。見渡す限り、どこまでも続く緑の迷宮。遠くで夜鳥の鳴き声が聞こえる。
(川は危険だ。獣も人も水辺に集まる。……視界の開ける尾根を目指す)
前世の乏しいサバイバル知識を総動員し、私はただひたすらに歩き始めた。
熱っぽい体。鉛のように重い足。
だが、それ以上に辛いのは孤独だった。
グレイグの不器用な優しさ。セラの温かい手。ヴォルフラムの石頭だが真っ直ぐな忠誠心。帝国の仲間たちの顔が、脳裏に浮かんでは消える。
(……みんな……)
唇を強く噛み締め、溢れそうになる涙をこらえる。
一歩、また一歩と、月明かりが頼りの暗い森の中へ。
私の人生で、最も長く孤独な夜が始まっていた。




