第80話:『王子の覚悟と、絶望の報せ』
【リューン近郊・賢者の庵】
「――天翼の軍師殿に伝えてくれ。このアルフォンス・フォン・アルカディア、覚悟はできた、と」
夜明け前の静寂を破る、若き王子のあまりに気高い誓い。グランは言葉を失い、ただ熱いものが込み上げ、視界が滲んでいく。
彼女は静かに立ち上がると、震える手でアルフォンスの手を強く、強く握りしめた。
「……ええ。ええ! 必ず伝えます! リナさんも……きっと喜んでくれるはずです!」
グランはアルフォンスを、古木の香りが満ちる庵の中へと招き入れた。
そして、彼が一番好きだった少し苦い豆で珈琲を淹れる。湯が注がれる音と立ち上る香ばしい湯気。夜を徹して槌を振るい、大きな決断を下した彼の張り詰めた神経が、少しでも解きほぐされることを願いながら。
「……ありがとう、グラン」
アルフォンスは温かい陶器のカップを両手で包み込み、ほっと一息ついた。
「それで……軍師殿は今どこに?」
「リナさんなら……」
グランは窓の外、白み始めた東の空に浮かぶ王都の影を見つめた。
「……今頃、あなたのお父上……国王陛下と対峙されているはずです」
「! 父上と……!?」
「ええ。全ては今夜、決まります」
グランの声には、期待と、隠しきれない緊張が滲む。
「リナさんの……いえ、『天翼の軍師』の言葉が陛下に届けば、この国の未来は大きく変わる。……私たちが望む、皆が楽しく笑い合える国へと」
「そうか……」
アルフォンスは、ごくりと珈琲を飲み下した。
その苦みが、彼の覚悟をさらに固める。そうだ、これからだ。新しい国を創るのだ。
二人の間に満ちた希望と高揚が、小さな庵の空気を熱く震わせた。
「グラン、俺は何をすべきだ? 何でも言ってくれ。天翼の軍師と共に戦おう!」
アルフォンスが力強く立ち上がった、まさにその瞬間。
――ブブブッ、ブブブブブブッ!
グランの腰に下げた革袋が、痙攣するかのように激しく震え、これまで聞いたこともないような異様な音を立てた。
リナから渡された『囁きの小箱』。最上級の緊急連絡を示す合図。
グランは血の気が引くのを感じながら、その箱を掴み出した。
「……リナさん!?」
震える指で、彼女はボタンを押す。
「聞こえますか! 何があったのですか!」
ノイズの奔流の向こうから、絶望を絞り出すような声が届いた。
『……グラン……殿……! き、聞こえ……ますか……ッ!』
息も絶え絶えの、悔しさに満ちたクラウスの声だった。
「クラウスさん! しっかりして! どうしたのですか!」
『……申し訳……ありませ……。……リナ様が……』
声が途切れる。そして、彼は最後の力を振り絞るように叫んだ。
『――リナ様が、『剣聖』ハヤトに……攫われ……ました……ッ!』
「――なっ……!?」
グランの手から、『囁きの小箱』が滑り落ちた。床にゴトリと鈍い音を立てて転がる。
アルフォンスもまた、信じがたい報せに心臓を氷の手に掴まれたように凍りついた。
ようやく灯った希望の光が。
たった今固めた覚悟が。
一瞬にして、深い、深い絶望の闇に飲み込まれていく。
だが、グランは崩れなかった。
アルフォンスが彼女の肩を掴むより早く、彼女はハッと顔を上げる。
そうだ、絶望している暇はない。
彼女の怜悧な頭脳の歯車が、恐るべき速度で噛み合い、回転を始めた。
(……ハヤトがリナさんを攫った。連れて行く場所……人目につかず、安全で、彼が土地勘のある場所……一つしかない!)
彼女は床に落ちた小箱を拾い上げ、ボタンを強く押した。幸い、通信はかろうじて繋がっている。
「クラウスさん! 謝罪は後! 状況は理解しました! 今すぐライナー隊長に伝達を! 『賢者グラン、リナ様の居場所に心当たり有り。これより救出に向かう』と!」
『……! わかった!』
グランは矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「ライナー隊長には部隊を率いてこの庵を目指すよう伝えてください。アルフォンス王子と合流していただきます。……そしてクラウスさん、あなたは動ける者を数名連れてすぐに私の元へ! 私がリナさんの居場所まで案内します!」
「かつて私たちが使っていた、森の奥の隠れ家です! ハヤトなら必ずそこへ向かうはず!」
淀みない的確な指示に、通信の向こうのクラウスも、隣のアルフォンスも息をのむ。
これが、王国の頭脳と謳われた賢者の真の姿。
絶望の淵に立たされながら、決して思考を止めない鋼の意思。
絶望の闇に射し込んだ、一条の鋭い光。
賢者の決意と王子の祈りが、夜明け前の冷たい森に、強く共鳴していた。




