第79話:『断絶した通信と、司令官の決断』
夜が深まり、石造りの司令室に、肌を刺すような冷気が満ちていく。
国境最前線、『涙の砦』。
ライナー・ミルザは、広げられた作戦地図に昏い眼差しを落としていた。リナたちが国王との会談に臨んでいる今この瞬間も、彼の思考は止まらない。盤上の駒を動かすように、あらゆる不測の事態を想定し、その先の対策を幾重にも張り巡らせる。
そしてこの瞬間、彼の全神経は、ただ一点。
テーブルに置かれた黒光りする金属の箱――『囁きの小箱』に注がれていた。
静寂は、唐突に引き裂かれた。
――ぶぶぶっ、ぶぶぶぶぶぶっ!
テーブル上の小箱が痙攣するように短く、激しく振動する。
クラウスからだ。
ライナーは弾かれたようにボタンを押し込んだ。
「クラウス! 状況は!」
『……ぐ……。……ライナー……隊長……!』
ノイズの向こうから、息も絶え絶えな声が届く。悔しさに歪み、かろうじて言葉を紡いでいるのが分かった。
『……き、聞こえ……ますか……ッ!』
「聞こえる! 報告しろ!」
『……申し訳……ありませ……。……リナ様が……』
声が途切れる。ライナーは奥歯を強く噛みしめ、次の言葉を待った。
そして、最後の力を振り絞るような、悲痛な叫びが鼓膜を打った。
『――リナ様が、『剣聖』ハヤトに……攫われ……ました……ッ!』
言葉を最後に、通信は途絶えた。
しん、と静まり返った司令室に、ライナーは立ち尽くす。全身の血が、足元へ向かって凍りながら落ちていくような感覚。だが、その頭脳だけは恐るべき速度で回転を始めていた。
(国王との会談直後……? 罠か……?)
軍師としての本能が警鐘を鳴らす。
(いや、国王に我々を嵌める利がない。それに、敵が『剣聖』一人だったというクラウスの報告……。組織的な罠ではないと見るべきか……)
震える指で、再び小箱のボタンを押す。
「クラウス! 生きているなら応答しろ!」
数秒の沈黙。
『……はっ……。……こちら、クラウス……無事、です……』
「状況を正確に報告しろ! 国王の関与は!」
『…… 国王陛下が退去された直後、ハヤトは単独で天井から……。国王側に裏切られた形跡はありません……! 奴の単独犯行と、思われます……! 申し訳、ありません……!』
「……分かった」
ライナーは短く応えると通信を切り、別のペアの無線機を掴んだ。
セラへと繋ぐ。
その声は、もはや冷静さを通り越し、氷のように冷徹な響きを帯びていた。
「セラ殿! 聞こえるか!」
『…はい。聞こえます。…リナ様からの通信が入りましたか?』
「聞け! 今すぐグレイグ中将閣下に最速の伝令を! 伝言はこうだ。『――天翼、喪失セリ。我、これより全戦力を以て、その奪還にあたる』、と!」
彼は一息に言い放ち、続ける。
「セラ殿。この砦まで前進して欲しい。ここからの後方支援の指揮をおまかせしたい。……頼めますか?」
『……すぐ、そちらに向かいます!』
セラの悲痛な、しかし覚悟を決めた声が返ってきた。
ライナーは無線機を素早く置くと、部屋の隅に立てかけてあった愛剣を掴んだ。扉を蹴破らんばかりの勢いで開け放ち、夜明け前の薄闇に身を乗り出す。集まっていた部下たちの顔に驚愕が走る。
彼の喉から迸ったのは、もはや人の声ではなかった。
主を奪われた、一匹の獣の咆哮だ。
「全員、戦闘準備ィィィッ!!」
「『影の部隊』は全戦力を王国領内へ投入する!」
「――目的はただ一つ! リナ様を奪還する!」
己も潜入用の黒装束を荒々しく身に纏いながら、ライナーは命じる。
後方で指揮を執っていたその姿は、もうどこにもない。自らが刃の先端となり、この身を切り裂く屈辱を晴らすのだ。
夜明け前の深い闇の中、帝国の影が王国へと向かっていく。
その先頭に立つライナーの瞳の奥で、静かに、しかし底知れぬ怒りの炎が燃え盛っていた。