第78話:『剣聖の急襲と、軽い獲物』
国王の気迫に満ちた背中が、深い闇へ溶けるように消えていく。
残された私たちは、誰ともなく安堵の息を漏らした。張り詰めていた空気が、ふっと弛緩する。
最大の難関を乗り越えたという、わずかな気の緩み。
それは、あまりにも無防備で、致命的な一瞬だった。
天井裏の闇。息を殺していたハヤトは、その瞬間を見逃さない。
(……今だ)
王国の未来も、和平交渉も、彼にはどうでもよかった。
飢えた獣のような瞳が捉えるのは、ただ一人。木箱に腰掛ける、小柄なフードの影。
忌々しい『天翼の軍師』、ただそれだけだ。
――ドゴォォォンッ!
鼓膜を突き破る轟音。
瞬間、頭上の天井が内側から爆ぜ、紙屑のように舞い散った。降り注ぐ木片と埃の滝の中から、凶鳥のごとく黒い影が舞い降りる。月明かりを浴びたその手には、血を求めるように鈍く輝く抜き身の長剣が握られていた。
「――見つけたぞ、化け狐ェッ!」
憎悪に焼け付くような咆哮が、倉庫の空気をビリビリと震わせる。
誰もが凍りつく中、ただ一人。鋼の音を響かせ、私の前に躍り出た影があった。
「リナ様ッ!」
ヴォルフラムだった。
絶叫と共に抜き放たれた彼女の剣が、私を守る盾となる。続くように、クラウスと他の『影の部隊』員たちが殺気を放ちながら、瞬時に獣を囲む陣形を組んだ。
だが、遅い。
人の反応は、獣の速度にあまりにも追いつかない。
「――邪魔だ」
氷のように冷たい呟き。
それが聞こえた時には、ハヤトの姿はすでにヴォルフラムの目前にあった。
ヴォルフラムが繰り出す必殺の剣閃。しかしそれは、迫りくる絶望の前ではあまりに遅く、あまりに軽い。
甲高い悲鳴のような金属音。
彼女の剣は、人知を超えた一撃の前に木の枝のように弾き飛ばされ、宙を舞った。がら空きになった胴体に、ハヤトの肩口がめり込む。
「がはっ……!」
くの字に折れ曲がった体が、壁に叩きつけられる生々しい音が響いた。ヴォルフラムは短い悲鳴と共に、糸が切れた人形のように崩れ落ちる。
「ヴォルフラムさん!」
私の叫びは、新たに迸る剣戟の嵐に掻き消された。
クラウスたちが死を覚悟し、四方から同時にハヤトへ殺到する。精鋭たちの連携は、本来ならばいかなる達人であろうと逃れられないはずだった。
しかし、狭い倉庫の中で、彼はもはや人ではなく災害そのものだった。
縦横無尽に閃く銀色の軌跡。
それは死を振りまく舞踊。あまりにも美しく、そして残酷な剣の舞。
刃の腹が叩きつけられる鈍い音、骨が軋む音、肉を打つ音。
描かれる軌跡のたび、仲間が一人、また一人と声もなく床に倒れ伏していく。
殺意はない。ただ、邪魔な玩具を壊すかのように、的確に、無慈悲に、意識だけが刈り取られていく。
それは圧倒的な力の差が生み出す、ただただ絶望的な光景だった。
やがて、動く者は二人だけになった。
私と、目の前の死神だけが。
倒れた仲間たちのうめき声と、鼻をつく鉄と血の匂いが、吐き気を催させる。
木箱に座ったまま、私は動けなかった。指先から血の気が引き、自分の意思とは無関係に体ががたがたと震える。
(……怖い)
(……死ぬ)
魂が金切り声を上げていた。
積み上げてきた知恵も計略も、この絶対的な暴力の前では、砂の城のようにもろく、何の意味もなさない。
彼の影が、私に覆いかぶさる。その冷たさに肌が粟立ったのを最後に、私の意識はぷつりと断ち切られた。
◇◆◇
獲物を手にした狩人のように、ハヤトは気を失った軍師の体を小脇に抱え上げた。
荷物のように軽々と抱えたが、そのあまりの軽さにハヤトは眉をひそめる。
「……やけに、軽いな」
小さな違和感に首を傾げながらも、彼は自ら開けた天井の穴から、再び夜の闇へと躍り出た。繋がれていた馬を乱暴に奪い、鞍の前に無力な体を乗せると、王都の闇へと馬を駆る。
……どれくらいの時間が経っただろうか。
最初にうめき声を漏らしたのは、ヴォルフラムだった。
全身を打ち付ける激痛に耐えながら意識を浮上させ、掠れた声で主の名を呼ぶ。
「……リナ……様……?」
痛む体を引きずりながら見回した先、そこに広がっていたのは、もぬけの殻となった倉庫。
そして、天井にぽっかりと空いた、夜空を覗かせる絶望の穴。
リナ様の姿は、どこにもない。
「……あ……。ああ……」
声にならない嗚咽が漏れ、やがてそれは獣のような絶叫となって、がらんどうの倉庫に虚しく響き渡った。
「あああああああああああああああッ!」
遅れて意識を取り戻したクラウスは、その惨状を瞬時に理解し、奥歯を強く噛みしめる。震える手で懐を探り、そこに残る『囁きの小箱』の冷たい感触を確かめた。
ライナーへ、そしてセラへと繋がる最後の命綱。
だが、その主は、もういない。
夜の闇は、まだ始まったばかりだった。絶望の色を、どこまでも深く塗り重ねながら。
皆様のブックマーク、評価、そして「ヴォルフラムさん、頑張れ!」という温かい感想が、私の執筆の何よりのエネルギーになります!
次回も、どうぞお楽しみに!




