第77話:『王の涙と、最後の賭け』
潮の香りを乗せた湿った風が肌を撫で、打ち付ける波の音が鎮魂歌のように響き渡る。
夜の港地区は、深い静寂に包まれていた。
古びた倉庫の中は、かび臭さと埃の匂いが満ちている。頼りになる光は、卓上に置かれた一本の蝋燭だけ。そのか細い炎が頼りなく揺らめき、私たちの顔に深い影を落としていた。
揺らめく光の下、私は『天翼の軍師』として、一人の老王と向かい合う。
国王レオナルド三世。
玉座で見た生気のない抜け殻のような姿ではない。青白い顔には深い疲労が刻まれているものの、その瞳の奥には、これから起こる全てを覚悟した、悲壮なまでの静けさが宿っていた。
「……そなたが、帝国の『天翼の軍師』か」
かすれた声が、埃っぽい空気を震わせる。
私はその問いには答えず、静かに切り出した。
「――陛下。ご子息、アルフォンス王子はご健在です」
その一言は、老王の心を貫いた。
常に鉄の仮面のように無表情だった顔が、初めて人間らしい感情に歪む。大きく見開かれた瞳が揺れ、わななく唇が何かを形作ろうとしては、空しく開閉を繰り返した。
私は静かに言葉を続ける。
リューンの街でアルフォンスがいかに民に慕われ、そして誰よりも深く国の未来を憂いているかを。
「ですが、彼はまだ立つことを決心できてはおりません。彼の友である賢者グラン殿から、我々の連絡役を通じて伺いました。……彼は今も、自らを『宮廷を捨てた臆病者』と思い悩んでおられる、と」
その言葉は、老いた王の胸を鋭く抉った。
息子の苦悩を、敵国であるはずの帝国の軍師から聞かされる皮肉。
こらえきれなかった一筋の雫が、彼の目尻から溢れ出す。それは頬に刻まれた深い皺を川のように伝い、顎の先でぽつりと落ちた。
「……そうか……。あの子は……。全て、この父親の不甲斐なさ故……。すまぬ……すまぬ、アルフォンス……」
偽らざる懺悔が、倉庫の静寂に痛いほど響き渡る。
私はその父の涙を静かに見届け、最後の、そして最大の賭けを提案した。
「陛下。我々帝国は、貴国を滅ぼすことを望みません。望むのは、健全で対等な隣人です。そのために、腐敗した貴族たちという『病巣』を取り除く手助けをさせていただきたい」
私の言葉に、国王はハッと顔を上げた。
「王国内にも、今の体制を快く思わぬ者たちは数多くおります。腐敗した中央貴族に虐げられてきた地方領主たち、そして静観を決めている中立派。……我々の『蜘蛛の糸』は、既に彼らへの接触を開始しております。陛下がお立ちになれば、彼らは必ずや呼応するでしょう」
「アルフォンス王子を支持する確かな基盤を、我々が水面下で整えます。……陛下には、その最後の『仕上げ』をお願いしたいのです。この国を、真に民の手に取り戻すために」
国王は、蝋燭の炎を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
その老いた瞳の中で、絶望と希望が激しくせめぎ合っているのが分かる。
やがて彼は、自らの涙を手の甲で乱暴に拭い、ゆっくりと立ち上がった。
その背筋は、まっすぐに伸びていた。
もはや玉座で見た無力な老人のものではない。たとえこの身がどうなろうと、自らの血と国に最後の責任を果たすという、一人の気高き『王』の背中だった。
「……分かった。……やろう」
声にもう、迷いはなかった。
「この老いぼれの最後の務めとして。……我が身がどうなろうと構わん。ただ、アルフォンスと民の未来を、お頼み申す……!」
その覚悟と共に、歴史的な密約は成立した。
私は今後の連絡手段として、黒曜石のように鈍く光る『囁きの小箱』を差し出す。国王は、震える手でそれを受け取った。
「……これが、我々の絆となります」
小さな箱を、まるで息子の未来そのものであるかのように、指の関節が白くなるほど強く、強く握りしめる。
そして彼は、私に深く、深く頭を下げると、夜の闇の中へと去っていった。
二度と振り返らないという、硬い決意をみなぎらせた背中。
私たちは、ただその王の背を見送ることしかできなかった。
誰も気づいていない。
この倉庫の天井、梁が落とす深い闇の奥で、一匹の獣が息を潜め、舌なめずりをしながら最高の狩りの瞬間を待ちわびていることに。