第76話:『港の倉庫と、運命の夜』
夜。
王都の港地区は、まとわりつく潮の香りと、魚のはらわたの生臭さに満ちていた。貧しさの澱みが霧のように立ち込め、厚い雲に覆われた月は光を失っている。ただ、波止場に打ち付ける鈍い波音だけが、腹の底に響いていた。
その一角に、打ち捨てられた古い倉庫が黒い影を落とす。
――音を立てず、錆びた鉄の扉が内側から開いた。
闇に溶け込むように滑り出たのは、『影の部隊』の隊員二人。鋭い目が素早く周囲の危険を探り、安全を確認すると無言の合図を送る。
静かにその倉庫に身を滑り込ませたのは、無口な傭兵ゲッコー、抜け目のない行商人クラウス、そして敬虔なシスター見習いヴォルフラム。三人に守られるように、小さなフードを被った孤児の少女(私)が続く。全員、この薄汚れた港町に馴染む、くたびれた旅人の格好だ。
「――準備を開始する」
クラウスの低い声が、埃っぽい空気を震わせた。
隊員たちは手際よく内部を再度点検し、梁や窓から非常時の脱出経路を確保していく。その静かで無駄のない動きを横目に、ヴォルフラムが私の前に進み出て、一つの大きな麻袋を差し出した。
中には見慣れた、しかし今はひどく場違いな豪奢なローブと、冷たい金属の変声器。
「リナ様。お召し物を」
「……はい」
頷いた声が、自分でも驚くほどかすれていた。
無理な行軍と慣れない潜入生活。そして、これから始まる大仕事への極度の緊張。それらが、私の小さな体を内側から確実に蝕んでいた。
頭の芯が、じんと痺れるように熱い。肌が妙に火照っている。
(……風邪、かな……。でも、今ここで倒れるわけには……)
誰にも気づかれぬよう、私は息を深く吸い込み、燃え尽きそうな気力を奮い立たせた。
木箱の陰で、ごわごわした村娘のワンピースを脱ぎ捨てる。滑らかで重い、威厳に満ちた軍師のローブに袖を通す行為は、か弱い少女リナを脱ぎ捨て、別の役を纏う儀式のようだった。
最後に変声器を喉元に装着し、フードを目深に被る。
「……どう、でしょうか」
振り返ると、ヴォルフラムとクラウスが息を呑む気配がした。二人の真剣な眼差しが、私の覚悟を肯定している。
そこに、もう頼りない孤児の少女はいない。
帝国の未来を双肩に担う、『天翼の軍師』が立っていた。
ローブの下で体がじっとりと熱を帯びていることに、誰も気づいていない。
私はよろけないよう注意しながら、倉庫中央の木箱にちょこんと腰を下ろした。立っていては、背の低さで子どもだと悟られてしまうから。今日の会談に仰々しい輿はない。フードと変声器、体形の判りにくいローブ、そしてこの薄暗闇が私の鎧だった。
ヴォルフラムが音もなく影のように背後に控え、クラウスは扉近くの闇に身を潜ませる。
あとは、今夜の主役を待つだけだ。
ドクン、ドクンと、心臓が耳元で大きく鳴る。
この早い鼓動は、決戦前の武者震いか。それとも、体を蝕む熱のせいか。
闇に沈む私自身にも、判別がつかなかった。
◇◆◇
同じ頃、国王レオナルド三世は、お忍び用の粗末な馬車に揺られていた。護衛は信頼する側近と、王宮内に潜ませていた案内役の『影の部隊』の数名のみ。
彼は固く目を閉じ、これまでの人生を反芻していた。王として何ができたのか。何を成し遂げられなかったのか。後悔ばかりが胸をよぎる。
だが今夜、全てが変わるかもしれない。
あるいは、全てが終わるのかもしれない。
「……陛下。間もなく到着いたします」
側近の声に、彼はゆっくりと目を開けた。
その老いた瞳には恐怖ではなく、自らの最後の務めを果たすという、静かに燃える覚悟の光が宿っていた。
◇◆◇
そして、その二つの覚悟を嘲笑うかのように。
闇の中で舌なめずりをする一匹の獣がいた。
『剣聖』ハヤト。
国王の一行が倉庫へと消えていくのを、彼は少し離れた建物の屋根から冷ややかに見下ろしていた。
「……ふん。こんな寂れた場所で、何の密会だ?」
軽い好奇心だけでつけてきた。国王が腐敗貴族と手を切り、何か新しい動きを起こすのか。あるいは裏取引でもしているのか。どちらに転んでも、面白い見世物になる。
猫のようなしなやかさで屋根から屋根へ飛び移り、音もなく倉庫の屋上へ降り立つ。古びた天窓の隙間から、中を覗き込んだ。
薄暗い倉庫の中。
国王と、その側近たち。
そして、向かいに座る小柄なフードの人影。
(……ん?)
ハヤトは目を細めた。
あの特徴的なローブ。あの妙に尊大な佇まい。忘れもしない。
自分に生涯の屈辱を与えた、忌々しい帝国の『天翼の軍師』。
その瞬間、ハヤトの全身を歓喜と憎悪が稲妻のように駆け巡った。
「……は……はは……ははははは!」
声にならない狂喜の笑いが喉から漏れる。
(見つけたぞ……! 見つけたぞ化け狐め! まさかお前から俺の縄張りに、のこのこやって来るとはな!)
もはや国王が何を話そうとどうでもいい。
彼は息を殺し、牙を研ぎ、最高の瞬間に獲物へ飛びかかるためだけに全神経を集中させた。
この倉庫は袋のネズミ。今夜こそ、あの忌々しい仮面を引き剥がし、醜い素顔を拝んでやる。
そしてこの手で、ズタズタに――。
闇の中、三者三様の思いが交錯する。
運命の夜の幕は、静かに、そして確実に上がった。
誰もがまだ、その本当の結末を知らないままに。