第8話:『軍師の留守番と戦場のシチュー』
鉄の匂いが混じる冷たい風が、天幕の隙間から吹き込んでくる。
夜明け前の薄闇の中、駐屯地はすでに動き出していた。あちこちで交わされる兵士たちの怒声と、慌ただしく響く蹄の音。決戦は三日後。その緊張感が、肌をピリピリと刺す。
グレイグ司令官は、私が解読した敵の配置をその目で確かめるべく、自ら馬を駆って最前線へと向かうという。
「リナ。いいか、絶対にこの天幕から出るな。一歩もだ」
出発の直前、重い鎧をまとったグレイグが私の前に膝をついた。その目は、戦場へ向かう男の厳しさを宿しながらも、声にはどこか諭すような響きがあった。
「お前は今、この東部戦線における最高の機密事項だ。敵の斥候に嗅ぎつけられるわけにはいかん。分かったな?」
「……はっ」
私は神妙に頷いてみせる。もちろん内心では、(やった! 面倒な視察に行かなくて済む! これで心置きなく料理に集中できる!)などと、ガッツポーズをしていたのだが。
「セラ、こいつを頼んだぞ。何かあれば、すぐに知らせろ」
「はっ。閣下も、ご武運を」
セラ副官の凛とした敬礼に見送られ、グレイグの背中はあっという間に立ち込める朝霧の中へと消えていった。
さて、残されたのは山のような課題と、そして――私の護衛兼お目付け役のセラ副官。
律儀にも、グレイグは私を遊ばせておく気など毛頭なかったらしい。机の上には、昨日鹵獲したばかりだという新たな暗号文書の束と、周辺諸国の商人たちが密かに使うという符丁の一覧表が鎮座している。
「ちぇっ。人使いが荒いんだから……」
小さく悪態をつきながらも、仕事に取り掛かる。不思議なものだ。一度集中すれば、複雑怪奇な文字列が意味のある言葉へと変わっていく作業は、存外に面白かった。前世で夢中になった、難解なパズルを解く感覚によく似ている。
午前中いっぱいを暗号解読に費やし、昼食を挟んで商人たちの符丁のパターン分析を終える頃には、窓の外はもう柔らかな西日に染まっていた。
解読した情報――『敵の別働隊が、我々の補給路“鷲ノ巣峠”を断つべく動いている』という急を要する内容――は、待機していた伝令兵に託す。彼の駆る馬が土煙を上げて遠ざかっていくのを、私は天幕の入り口から見送った。
ふぅ、と長い息を吐き、ローブを脱ぎ捨てて大きく伸びをする。
(よし、仕事は終わり! ここからは、私の時間!)
約束通り、厨房は私の自由に使えた。それどころか、グレイグの命令だろう、土のついた新鮮な野菜や塩漬け肉の塊、見たこともないハーブやスパイスが運び込まれている。職権乱用も、ここまでくるといっそ清々しい。
私は腕まくりをすると、早速夕食の準備に取り掛かった。
今日のメニューは、シチュー。昨日、私が「人間の食べるものではない」と酷評した、あの泥水のような代物へのリベンジだ。
大きな寸胴鍋に、干し肉と野菜の皮で取った出汁を張る。そこまではいつも通り。
ふと、背中に刺さるような視線を感じて横を向くと、いつの間にかセラ副官が厨房の入り口に立っていた。腕を組み、私の手元を射抜くような真剣な眼差しで見つめている。
(うわ、監視されてる……)
少しやりにくさを感じながらも、作業を続ける。たっぷりの玉ねぎを刻み、鍋に投入する。じっくり、じっくりと、飴色になるまで炒めていく。やがて、甘く香ばしい匂いが厨房に満ち満ちてきた。
「……なぜ、そこまで炒めるの?」
不意に、すぐ背後から声がした。振り返ると、驚くほど近くにセラ副官が立っている。その距離感に、心臓が小さく跳ねた。
「え? あ、えっと……こうすると、玉ねぎの甘みとコクが引き出せるんです。シチューの味が、ずっと深くなるんですよ」
「甘みと、コク……」
彼女は私の言葉を反芻するように呟き、鍋の中の飴色の玉ねぎを、まるで珍しい宝石でも見るかのように覗き込んでいる。その瞳は、普段の厳しさはどこへやら、純粋な好奇心できらきらと輝いていた。
次に、人参、じゃがいも、そして柔らかく下茹でした塩漬け肉を鍋へ。
「待って」
セラが私の手をそっと制した。
「その肉、なぜ一度茹でるの? そのまま煮込んだ方が、肉の味がスープに出るのではないかしら」
「塩漬け肉は、塩分が強すぎるんです。一度茹でて塩抜きをしないと、シチュー全体が塩辛くなってしまうので。それに、余分な脂も落ちて味が澄むんですよ」
「……なるほど。合理的ね」
彼女は深く頷き、懐から取り出した小さな手帳に何かを書き留めている。その真剣な様子は、まるで魔法の秘術でも学んでいるかのようだ。
(この人、もしかして料理に興味があるのかな? それとも、毒でも入れると思って警戒してる……わけじゃなさそう?)
最後に、隠し味の赤ワインと、数種類のハーブを束ねたブーケガルニを放り込む。
「それは何?」
セラが、ハーブの束を指さした。
「ブーケガルニです。香草を束ねたもの。こうすると、煮込んでもバラバラにならずに、いい香りだけをスープに移せるんです」
「……すごい。まるで魔法みたい」
彼女は、感嘆のため息を漏らした。その横顔は、いつも見ている怜悧な副官のものではなく、新しいことを知って目を輝かせる、年頃の女性のそれだった。なんだか、意外な一面を見てしまった気がして、私の胸も少しだけ温かくなる。この人、本当は可愛い人なのかもしれない。
気がつけば、大量の食材の下ごしらえまで終わったのだろう。少し離れた所から厨房の主が、こちらをほほ笑ましそうに見ていた。
日が落ち、駐屯地がカンテラの頼りない灯りで照らされる頃。
泥と硝煙の匂いを纏い、グレイグが帰還した。その顔には深い疲労の色が浮かんでいたが、瞳の奥には確かな手応えによる光が宿っていた。
「……リナ。お前の言う通りだった」
天幕に入るなり兜を脱ぎ捨て、グレイグは椅子にどさりと身体を預けた。
「敵が潜むあの丘は、大軍を隠すには絶好の場所だ。鷲ノ巣峠の情報も助かった。あやうく、背後を突かれるところだった」
私は何も言わず、温めておいたシチューを三つの木の器に満たして差し出す。立ち上る湯気と共に、豊かな香りが天幕の中にふわりと広がった。
「……なんだ、このいい匂いは」
グレイグが、訝しげに器を覗き込む。
「シチューです。昨日の、リベンジ」
私がそう言うと、グレイグは顔を上げ、私の隣で同じようにシチューを待つセラを見て、ニヤリと口の端を上げた。
「ほう。今日は助手付きか」
「助手ではありません。……ただの、視察です」
セラはぷいっとそっぽを向くが、その手はしっかりとスプーンを握りしめている。
しばし、天幕の中はスプーンが器に当たる音だけが響いた。
やがて、グレイグがぽつりと呟く。
「……美味い」
それは、心の底から漏れ出たような、素直な一言だった。
「温かい……。身体の芯まで、染み渡るようだ」
彼はまるで飢えた子供のように、夢中でシチューをかきこんでいる。
セラ副官も、黙々とスプーンを動かしていた。その厳しい表情が、ほんの少しだけ和らいで見える。やがて、器を空にした彼女は、静かに、しかしはっきりと呟いた。
「……美味しい。玉ねぎの甘みと、コクが、素晴らしいわ」
そして、私の方を見て、ほんの少しだけ微笑んだ。
その不器用な笑顔が、なぜだか私の胸にじんわりと響いた。
この人たちも、普段は司令官と副官という重圧を背負っているけれど、こうして温かいものを食べれば、素直に「美味しい」と感じる、一人の人間なんだ。
そう思うと、この殺伐とした場所も、少しだけ居心地の良い場所に思えてくるから不思議だった。
「リナ」
グレイグが、空になった器をテーブルに置きながら、私をまっすぐに見た。
「お前の飯を食うと、不思議と、勝てる気がしてくるな」
「……気のせいです」
「そうかもしれん。だが、今の俺たちには、その気のせいが何よりの武器になる」
決戦は、明後日。
この温かいシチューの記憶が、泥と血にまみれる戦場で、彼らの心を少しでも支えてくれるのなら。
そう思うと、私のこの地味な特技も、まんざら悪くないのかもしれない。
その夜、私は久しぶりに、前世の夢ではなく、孤児院のみんなの夢を見た。みんなで、温かいシチューを囲んで笑っている、そんな幸せな夢だった。