第75話:『鍛冶師の決意と、王の覚悟』
カン、カン、カン──。
熱を帯びた鉄を叩く音が、リューンの街に響き渡る。それが不意に途絶えた。
アルフォンスは汗に濡れた槌を、ずしりとした重みを感じながら、ゆっくりと作業台へ下ろす。額から流れ落ちた汗が、熱された鉄床に触れ、ジュッと音を立てて蒸発した。
この数日、ろくに眠りもせず、食事も喉を通らなかった。
ただ一心不乱に鉄を打ち続けた。まるで、心を蝕む迷いを炎で溶かし、弱さを槌で叩き潰すかのように。
だが、どれだけ鉄を叩いても、瞼の裏に焼き付いた光景は消えない。
土気色の肌をした子供たちの、何も映さない虚ろな瞳。
壁に寄りかかり、枯れ枝のような指で空を掴む老人。その唇から漏れる溜息は、風に掻き消されていく。
希望という言葉すら忘れた若者たちが、俯き、影を引きずって歩いていく。
その光景が、熱した鉄を突き立てられたように胸を焼く。
(……このまま逃げ続けることが、許されるのか)
(民を見捨て、己の平穏だけを貪る。それは、俺が心底憎んだ腐りきった貴族どもと、一体何が違う!)
答えは、とうに出ていた。
工房の隙間から差し込む夕陽が、舞い上がる煤を金色に照らし、壁に長い影を落とす。彼は道具を片付けると、工房の隅にある井戸へ向かった。
汲み上げた冷水に顔を浸す。
まとわりつく熱と、心の澱が一緒に洗い流されていくようだ。水面に映る自分の顔はひどく憔悴していたが、その瞳の奥には、鈍く、しかし確かな光が宿っていた。
濡れた栗色の髪を無造作にかき上げ、彼は顔を上げる。
その視線はもう、足元の影ではない。
迷いのない足取りで、彼はグランが待つ森の庵へと向かった。
◇◆◇
「――グラン」
庵の扉を叩くこともなく、アルフォンスは中へ入った。
夜通し彼を案じていたのだろう。グランは椅子に座ったまま、こくりと舟を漕いでいたが、その声にはっと目を覚ます。
「……アル。……あなた……」
彼の顔を見て、グランは息を呑んだ。
そこにいたのは、もはやただのお人好しな鍛冶屋の青年ではない。
その双眸から迷いは消え、自らの運命を受け入れ、その重責を背負う覚悟を決めた男の、静かで、しかし燃え盛るような炎が宿っていた。
「……俺は、決めた」
アルフォンスはグランの前へ進み出ると、その場に深く片膝をついた。騎士が主君に忠誠を誓う、その姿勢で。
「逃げるのは、もう終わりだ。この身がどうなろうと、俺はこの国を、民を救いたい」
彼は顔を上げた。
「天翼の軍師とやらに伝えてくれ。このアルフォンス・フォン・アルカディア、覚悟はできた、と」
あまりに気高い王子の姿に、グランは言葉を失い、ただその目に涙を浮かべるだけだった。
◇◆◇
その二日前。
王都の王宮、その奥深く。
国王レオナルド三世もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
蝋燭の揺らめく光が、彼の前に置かれた一枚の羊皮紙を照らし出す。帝国からの、極秘の会談申し入れ。
(……和平……? あの帝国が……?)
甘く、そして危険な響きを持つ言葉。罠か。
だが、今のこの国に、もはや失うものなどあるだろうか。英雄は去り、貴族は国を食い物にする。民は疲弊し、国は内側から崩れ始めている。
(……わしに、王としてできることは、もう何もない……)
諦めていた。
だが、この申し出は、彼に最後の選択肢を与えた。王としてではない。この国を愛する一人の父親として、最後に為すべきことがあるのではないか、と。
「……分かった」
夜明けの光がステンドグラスから差し込み始めた頃。
国王レオナルドは側近に、震えながらも確かな意志を込めて告げた。
「……会おう。帝国の軍師とやらに。……それが、わしにできる最後の務めやもしれん……」
その老いた背中には、久しぶりに王としての威厳と、すべてを背負う覚悟を決めた男の気迫が宿っていた。
密会の準備は、水面下で急速に進められた。
場所は王都の寂れた港地区、潮風に晒された古い倉庫。
日時は、二日後の夜。
そして、会合当日。
人目を忍び、緊迫した面持ちで歩を進める王と護衛の姿を、離れた建物の屋根から、一つの影が冷めた目で見つめていた。
『剣聖』ハヤト。
偶然にも王宮を訪れていた彼は、国王側近の不審な動きを嗅ぎつけ、後をつけていたのだ。
「……ふん。あのジジイども、何かコソコソと企んでやがるな。少し、付き合ってやるか」
その軽い好奇心が、やがて物語を最悪の事態へと導くとは、まだ誰も知らない。
運命の夜は、もうすぐそこまで迫っていた。