第73話:『二人の軍師と、夜明けの計画』
月明かりが、庵の小さな窓から細い光の帯となって差し込んでいる。
頼りない蝋燭の炎が揺らめき、私たちの顔と、床に散らばっては乾いた涙の跡を静かに照らしていた。
どれだけの時間、語り合っただろう。
誰にも気兼ねなく、故郷の言葉を紡げる安堵に、互いの声は震えていた。前世の他愛ない思い出、この世界に来てからの孤独と葛藤。堰を切ったように言葉が溢れ、止まらなかった。
「……まさか、こんな場所で同郷の人に会えるなんて……」
グランさんが赤く腫れた目で、それでも嬉しそうに微笑む。
「……私もです。本当に、嬉しい」
私も同じように微笑み返す。
今はもう、ただのリナとグラン。異世界で出会えた、価値観を分かち合える日本人だった。
夜が深く沈み、蝋燭の芯が短くなった頃、ふと庵に沈黙が落ちた。
空気の温度が変わる。私は一度、冷たい床の上で背筋を伸ばし、彼女の目をまっすぐに見つめた。感傷の時間は終わった。
「グランさん」
呼びかける声は、もうただの少女のものではない。低く、静かに響く。
「私は、帝国軍『天翼の軍師』として、あなたに協力をお願いしに参りました」
その言葉に、グランさんの瞳から感傷の色がすっと消え、深い知性を湛えた賢者の光が宿った。
「……聞きましょう、リナさん。いえ――軍師殿。あなたのお考えを」
私は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、床に広げる。クラウスたちが集めた情報を元に描き出した、病める王国の勢力図だ。腐敗した貴族派閥、暴走する英雄たち、暗躍するヴェネーリア連合。そして、その下に呻く民衆の姿が、インクのシミのように滲んで見えた。
「現状は最悪です。このままでは王国は内から崩壊するか、ヴェネーリアの傀儡と化すか……待っているのは緩やかな滅亡だけ」
「……ええ。同感です」
グランさんが静かに頷き、地図に落とす影は険しい。
「ですが」私は続けた。「希望はあります。アルフォンス王子です」
「……!」
グランさんの瞳が、蝋燭の光を反射して鋭く光った。
「私は、彼をこの国の新たな王として擁立したい。腐りきった膿を全て出し切り、王国を真に民のための国として再生させる。その手助けを、影から行います」
「……それは、王国を帝国の属国にするという意味ですか」
グランさんの問いは、氷のように鋭い。
「いいえ」
私はきっぱりと首を横に振った。
「我が君、皇帝ゼノン陛下が望んでおられるのは覇権ではありません。帝国と対等な隣人として手を取り合える、健全で安定した王国の存在です。永続する平和のために」
私の声に嘘がないことを、グランさんは見抜いたのだろう。
彼女は深く息を吐き出すと、初めて心の奥底にある本当の悩みを絞り出した。
「……リナさん。私もずっと、同じことを考えていました。アルフォンス様こそ次代の王にふさわしい、と。……ですが、私には力がない。彼には後ろ盾がない。腐敗した貴族たちを、一掃するための力が……」
「その『力』を、私たちが貸します」
私は、彼女の言葉を引き取った。
「グランさんの知恵と人望。アルフォンス王子の気高い理想。そして、私の計略と帝国の武力。この三つが合わされば、きっとこの国は変えられます」
懐から、もう一つ。黒光りする金属の小箱――『囁きの小箱』を取り出す。
「……これは?」
「魔法の糸電話、です」
私は悪戯っぽく微笑んでみせた。
「これがあれば、私たちはいつでも、どこにいても繋がることができる。グランさん。あなたにはアルフォンス王子と共に王国の内から動いていただきたい。私と帝国は、外からそのお膳立てを全て整えます」
私たちの視線が、揺れる炎の上で固く結ばれる。
二つの瞳に、同じ未来図が映っていた。あまりに大胆で危険な、しかし確かな希望に満ちた、夜明けの計画。
「……分かりました」
やがて、グランさんは決意を固めた表情で、強く頷いた。
「やりましょう、リナさん。この黄昏の王国に、もう一度朝日を昇らせるために」
差し伸べられた手を、固く握り返す。
歴史の裏側で、二人の少女が交わした小さな、しかし偉大な同盟。誰にも知られることのないその瞬間、庵の窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。




