第72話:『賢者の庵と、魂の共鳴』
木漏れ日がきらきらと地面に揺れる。
鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけが響く静寂の森。私は一人、古びた石造りの門の前に立っていた。高い壁に囲まれたその場所は、軟禁というより、むしろ俗世から隔絶された小さな聖域のようだ。
門の前には、二人の兵士が退屈そうに槍を手に佇んでいる。
だがその目は、ただぼんやりと前を向いてはいない。視線は鋭く、老練な佇まいをみせていた。
私が近づくと、兵士の一人が眉をひそめた。
「……ん? 小娘、何の用だ。子供が来るところではないぞ」
声は厳しいが、どこか孫娘に言い聞かせるような響きが混じる。
私は作りうる限りの無邪気な笑みを浮かべた。
そして、クラウスから教えられていた合図を送る。彼の古い友人だという門番――コードネーム、キャプテン・バルボッサ。隻眼の男に、そっと目配せをした。
(本当は元斥候兵の、オッドアイのおじさんらしいけど)
彼にだけ分かるように、エプロンの裾をほんの少し持ち上げてみせる。「クラウスの紹介」という、ささやかな合図だ。
隻眼の男の目が、わずかに見開かれた。
彼は隣の相棒に気づかれぬよう、ごく自然にあくびをしてみせる。
「……ふぁ〜あ。まあ、いいだろう。賢者様も退屈しておられる。……少しだけだぞ。邪魔をするなよ」
ギィ、と重い鉄格子の門が軋み、細く開かれた。
ぺこりと頭を下げ、門をくぐる。
中庭は驚くほど美しく手入れが行き届いていた。色とりどりの薬草が植えられた花壇。中央には大きな樫の木が涼しげな木陰を作り、その奥に、蔦の絡まる石造りの小さな庵がひっそりと佇む。
開け放たれた庵の窓辺。
一人の若い女性が椅子に座り、静かに本を読んでいた。眼鏡の奥で、長い睫毛が伏せられている。陽光が彼女の栗色の髪を透かし、きらきらと輝いていた。まるで一枚の絵画だ。
彼女こそが、元王宮賢者グラン。
私の足音に気づいたのか、彼女はゆっくりと本から顔を上げた。
大きな瞳が、私を捉える。
その目はただ静かだった。だがその奥には、私の全てを見透かすような、深い理性の光が宿っている。
「……こんにちは、可愛らしいお客様ね。何か私に御用かしら?」
鈴を転がすように、優雅で心地よい声が響いた。
緊張で乾いた唇を舐め、私は持ってきた手土産を差し出す。
「……あの、これ。この町で一番美味しいって評判のジャムです。それと……この本、もし良かったら……」
差し出したのは、クラウスが苦心して手に入れた、あの古代の恋愛詩集。
その本の表紙を見た瞬間。
常に冷静だったグランの瞳が、初めて大きく見開かれた。彼女の手が微かに震えている。
「……これは……。『月の女神のため息』……? どこでこれを……?」
「父が古い本を集めるのが好きで……家にありました」
もちろん、真っ赤な嘘だ。
彼女はしばらく言葉もなく、私とその本を交互に見つめていた。
やがて、ふっと理知的な表情を崩し、子供のように無邪気な笑みを浮かべる。
「……ありがとう。嬉しいわ。さあ、中へどうぞ。とっておきのハーブティーを淹れてあげる」
◇◆◇
陽光が埃を照らす静かな庵の中は、壁一面の書架を埋め尽くす古い紙と、乾燥した薬草の匂いで満たされていた。
私たちは小さなテーブルを挟んで向かい合う。グランは贈られた詩集を、まるで宝物のように指先で何度も撫でている。その瞳は、どこか遠い場所を懐かしむように細められていた。
交わす言葉の端々に、彼女の探るような視線を感じる。私の年齢にそぐわない言葉遣いや、この世界の常識からわずかに浮いた知識。彼女は、その違和感の正体を見極めようとしていた。その穏やかながらも芯のある眼差しに、私もまた彼女の聡明さを確信する。
やがて、グランはことりとカップを置いた。その澄んだ音が、午後の静寂に響く。
「……そろそろ、本当のお話を聞かせてもらえませんか」
静かに紡がれた言葉が、まっすぐに私を射抜く。
「あなたは、ただの村娘ではないでしょう?」
私は微笑むと、彼女の瞳を真正面から見つめ返す。
全ての駆け引きを捨て、ただ一言、心の奥にしまい込んでいた言葉を、そっと唇に乗せた。
「――はじめまして。……やっと会えましたね」
その瞬間。
彼女の手から詩集が滑り落ち、床でカサリと乾いた音を立てた。
見開かれた瞳が激しく揺れる。震える唇から、絞り出すような声が漏れた。
「……あなたも……なの……?」
紛れもない、故郷の響きだった。
庵の中に、時が止まったかのような沈黙が落ちる。
私たちは互いを見つめ合ったまま、動けなかった。相手の瞳の奥に、お互い多くの人には語れない孤独と、ここで出会えた奇跡への喜びを感じ取った。窓の外で風が木々を揺らす音さえ、聞こえなくなった。
やがて、グランがゆっくりと立ち上がる。
ギィ、と軋む音を立てて庵の扉に手をかけ、外界から切り離すように、静かに閉めた。
再び私に向き直った彼女の顔から、先程までの理知的な賢者の仮面は、綺麗に剥がれ落ちていた。
「……いつから、ここに?」
その一言を合図に、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
その夜、私たちは全てを語り明かした。
誰にも打ち明けられなかった秘密を。心の奥底に押し殺していた、本当の思いを。
ハーブティーがすっかり冷え切っていることにも気づかず、私たちは夢中で話し続けた。
言葉を重ねるたびに、互いを隔てていた警戒の見えない壁が、春の雪のように音もなく溶けていく。
その頃には私たちはもう『元王宮賢者』と『謎の少女』ではなかった。
国も、立場も、年齢も、すべてが意味をなくす。
ただ、この異世界で出会った、かけがえのない同郷の友として、そこにいた。
森の奥深く、小さな庵での邂逅が、王国の歴史を、そして二人の少女の運命を、大きく動かし始めることになる。




