第71話:『村娘の変装と、賢者の庵』
「――絶対に、ダメです!」
翌朝。宿の離れに、ヴォルフラムの鋭く、しかしどこか悲鳴じみた声が響き渡った。
彼女が仁王立ちで立ちはだかるその先。古びた木のテーブルの上には、クラウスがどこからか調達してきた数着の衣服が並べられている。この地方の村娘が着るような、何の飾り気もないワンピースとエプロン。干したての洗濯物のような、素朴な匂いがした。
「リナ様がこのような粗末な服をお召しになるなど! それに、たったお一人で森の奥へなど……!」
ヴォルフラムの剣幕は凄まじい。しかし、私は静かに首を横に振った。
「いいえ、ヴォルフラムさん。これが一番、安全で確実な方法です。『天翼の軍師』が物々しく現れれば、かえって賢者様を警戒させてしまうかもしれない。……それに」
私はクラウスの方へ、ちらりと視線を送る。
「変装の専門家も、ここにいることですし」
その言葉に、クラウスは少し照れくさそうに無精髭の生えた頬を掻いた。
「はは。行商人をやっていると、どうにもこういう知識ばかり増えましてね。……リナ様。こちらの亜麻色のワンピースはいかがでしょう。裾の刺繍がこの地方の特徴です。これを着ていれば、誰もあなたを怪しむ者はおりますまい」
クラウスは意外にも、女性の衣服に詳しかった。手際よく私に似合いそうな一着を選ぶと、ヴォルフラムの抗議の視線を柳に風と受け流し、私にそっと手渡した。
◇◆◇
数十分後。
着替えを終えて部屋に戻ると、そこにいた全員の空気がぴたり、と凍りついた。
セラが用意してくれた上等な絹のドレスではない。
くたびれているが清潔な、亜麻色のワンピース。少し不格好なエプロン。そして、髪を無造作に二つに結んだだけの姿。
そこにはもう『天翼の軍師』も『男爵』になった少女もいない。
ただ、どこにでもいる、少しだけ利発そうな田舎の娘が、所在なげにもじもじと立っているだけだった。
「…………」
「…………」
クラウスも、ヴォルフラムも、そして顔に傷のあるゲッコーさえも、言葉を失い私を見つめている。
沈黙を破ったのは、誰からともなく漏れた、ふっ、という息の音。
次の瞬間、三人の口元が同時に緩んだ。それは、まるで陽だまりのように温かく、優しい笑みだった。
「……か、可愛い……」
ヴォルフラムが、うわごとのようにぽつりと呟く。
「……ああ。全くだ」
クラウスも深く頷き、ゲッコーは静かに目元を和ませている。
その、あまりにほっこりとした空気に耐えきれず、私の顔にカッと血が上った。
「な、ななな、何ですか! そんなじろじろと! ……もう、行きますよ!」
私は恥ずかしさから叫ぶように言うと、手土産の詩集とジャムの瓶をひったくるように掴み、部屋を飛び出した。背後で三人が楽しそうに笑う声が聞こえ、さらに顔が熱くなるのを感じた。
◇◆◇
クラウスの先導で、私たちは森の奥深くへと踏み入る。木漏れ日がちらつき、湿った土と葉の匂いが立ち込めていた。
やがて木々の切れ間に、古びた庵と、退屈そうに立つ二人の門番の姿が見えてくる。
「――ここまでです」
クラウスが足を止め、低い声で告げた。
「リナ様。ここから先は、お一人で。我々はここで万が一に備えます」
「……分かっています」
私はこくりと頷く。
「リナ様……」
ヴォルフラムが心配そうに私を見る。その瞳は「私も行きます」と雄弁に訴えていた。
私は彼女に、精一杯の微笑みを返す。
「大丈夫ですよ、ヴォルフラムさん。これは戦いじゃなくて、ただのお茶会へのお誘いですから」
一人、小さな歩幅で庵へと向かう。
門番の兵士が私の姿に気づき、訝しげな視線を投げかけてきた。
心臓が、とくん、と少しだけ速く鳴る。
だが、私の手の中には最強の手土産がある。
私は胸を張り、できるだけ無邪気な笑顔を作った。
物語の重要な歯車が、また一つ、静かに軋みながら回り始めようとしている。
私はその重い扉を叩くため、小さな手を、そっと伸ばした。




