第70話:『蜘蛛の糸との、密会』
夕暮れの茜色が、寂れた宿場町を物悲しく照らし出す。傾きかけた屋根の連なりに、長い影が落ちていた。
私たちが身を潜める『樫の木亭』の離れ。その古びた木の扉が、約束の時刻通り、音もなく静かに開いた。
現れたのは、巡礼者を装った一人の男だった。
日に焼けて旅慣れた顔つき。しかし、ぼろぼろのマントの下に隠された身のこなしは、明らかに常人のそれではない。彼こそが、この地区の『蜘蛛の巣』作戦を束ねる先行潜入班のリーダーだ。
「――お疲れ様です、軍師殿」
男は部屋に入るなりフードを取り、まずクラウスに、次いでその背後に立つヴォルフラムと私に深く頭を下げた。
「状況を」
クラウスが低い声で促す。
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出すと、軋むテーブルの上に広げた。
「はっ。『蜘蛛の巣』は順調に機能しております。民衆の間では『修行中の剣聖』を待望する声が日増しに高まっているとのこと。王都の仲間によれば、剣聖ハヤトはこの噂のせいで身動きが取れず、かなり苛立っている、と」
「……結構」
クラウスが短く頷く。
「問題は、賢者グラン殿の周辺です」
男は地図上の一点、リューン近郊の森を指し示した。その指先がわずかに震えている。
「彼女を嗅ぎ回る不審な輩が増えております。おそらくヴェネーリアの密偵かと。今のところ手出しはできないようですが、時間の問題やもしれません」
その報告に、部屋の空気が張り詰めた。窓の外で鳴く鳥の声が、やけに大きく聞こえる。
私は黙って報告を聞きながら、一つの決意を固めていた。全ての報告が終わるのを待ち、静かに口を開く。
「それでは、クラウスさん。お願いしておいた、賢者グラン殿に関する追加情報をいただけますか」
「彼女の性格、好み、そして警備の抜け穴。どんな些細なことでも構いません。彼女に会うための鍵を見つけなければ」
彼は潜入班のリーダーに目配せする。男は心得たとばかりに頷くと、話し始めた。
「……賢者殿は、非常に本を愛しておられる、と。特に、今は失われた古代王朝の恋愛詩集を探しておられるという話を耳にしました」
「……恋愛、詩集……」
意外な情報に、私は思わず目を丸くする。
「それと、好物は南方の甘い果実を煮詰めたジャム。これは彼女を慕う町の子供たちが、時折見張りの兵士の目を盗んで差し入れているようです」
「見張りは?」
「緩いものです。彼らもまた賢者殿に心酔しておりますから。ただ、彼らの面子を潰さぬよう、配慮は必要かと……」
全ての情報を聞き終えた私は、ポン、と軽く手を叩いた。
「……決まりましたね。手土産は」
あまりにあっけらかんとした私の物言いに、ヴォルフラムが怪訝な顔でこちらを見る。
「り、リナ様……? 一体、何を……?」
「ヴォルフラムさん、クラウスさん」
私は二人に向かって、にっこりと微笑んでみせた。
「これから少し、お買い物に付き合ってください。『天翼の軍師』としてではなく、一人の『古代の詩を愛する本好きの少女』として、賢者様にご挨拶に伺いますから」
その方が自然で、彼女の警戒心を解ける。
そして何より、私自身がその方がずっと楽しい。
私の大胆不敵な宣言に、クラウスは呆れたように、しかしどこか楽しそうに口元を歪めた。ヴォルフラムだけがまだ状況を飲み込めていないようで、「は、はぁ……?」と間の抜けた声を漏らす。
作戦の歯車が、また一つ、大きく動き出す。
そんな予感が、部屋の空気を震わせた。
まずはこの寂れた宿場町で、一番美味しいジャムを探すところから始めよう。そう思うと、少しだけ心が軽くなるのを感じた。




