第69話:『蜘蛛の糸の報告と、軍師の次の一手』
日が西に傾き、宿場町が夕暮れの茜色に染まり始めた頃。
私たちが身を潜める離れの部屋の扉が、音もなく静かに開かれた。
現れたのはクラウスだった。街の喧騒と人々の汗の匂いをその身に纏わせ、無言で中に入ると、深く、息を吐き出す。
「……ご苦労様でした、クラウスさん」
私が声をかけると、彼は顔を上げ、静かに頷いた。
「はっ……。『蜘蛛の糸』との接触に成功。いくつか重要な情報を持ち帰りました」
部屋の中には、私、クラウス、ヴォルフラム、そしてゲッコーの四人だけ。窓には厚いカーテンが引かれ、蝋燭の揺れる灯りだけが、私たちの顔に陰影を落としている。
クラウスはテーブルの上に一枚の地図を広げ、持ち帰った情報を簡潔に、しかし正確に紡ぎ始めた。その内容は、私たちの想像以上に深刻で、複雑なものだった。
「――まず、国王の孤立は決定的です。先の謁見の後、もはや国王の言葉に耳を貸す有力貴族は一人もいない、と」
「貴族たちの横暴は日に日に増し、民衆の不満はいつ爆発してもおかしくない状況にあります」
「森の賢者と第三王子は今もリューンに潜伏中。ですが最近、彼らを嗅ぎ回る不審な輩が増えている、とも」
「……そして、『剣聖』ハヤトは数日前から王都で完全に姿を消しました。行き先は不明。何らかの単独行動に移った可能性が高いかと」
クラウスは一度言葉を切り、さらに声を潜める。
「……それと、最も厄介な動きを見せているのが、『ヴェネツィア連合』です」
その名前に、部屋の空気がわずかに重くなった。
「彼らは失脚したバルガス侯爵に代わり、東方沿岸を治めるロベール伯爵と急速に接近している模様。……潤沢な資金援助と引き換えに、伯爵領にある港の独占使用権を得ようとしている、と。これは事実上、王国の東の海を彼らが手中に収めることを意味します」
最後に、クラウスは最も奇妙な情報を口にした。
「……『聖女』マリアの動きが不可解です。彼女は最近、王都の古い寺院を拠点とし、貧しい民への炊き出しや無償の治癒活動を地道に始めている、と。少し前にはヴェネツィア経由で聖王国迄出向いて王都から暫く離れていたり、戻ると同時に、ほぼ毎日王城にも顔を出し、貴婦人たちと茶会を開いて居たりその活動範囲は広く、情報収集か、人気取りか……その真意は掴めておりません」
全ての報告を聞き終え、私はしばし目を閉じ、思考の海に沈んだ。
ピースは出揃った。だが、どれも歪で危険な刃を隠し持っている。
貴族、英雄、そして王。
誰もがバラバラに動き、国は崩壊の一途を辿っている。そして、その死にかけの巨象にハイエナのように群がるヴェネツィアの商人たち。
(……このままでは、手遅れになる……)
私は、目を開いた。
そして、その場の全員が息をのむような次の一手を、静かに告げた。
「――クラウスさん」
「はっ」
「『蜘蛛の糸』に、もう一度接触を。……国王陛下と私、『天翼の軍師』が内密に会うことは可能か、と」
「なっ……!?」
その言葉に、一番驚いたのはヴォルフラムだった。
「り、リナ様! ご正気ですか!? 敵国の王と直接接触するなど、あまりにも危険すぎます!」
クラウスとゲッコーも、驚愕の表情で私を見つめている。
「ええ。正気ですよ」
私はおどけるように、にっこりと微笑んでみせた。
「今の王国で一番話が通じる相手は誰でしょう? 腐った貴族でも、暴走する英雄でも、ましてや腹黒い商人でもない。……全てに絶望し、国の未来を本気で憂いている、あの孤独な王様だけです」
私の声には、絶対の確信がこもっていた。
「……ですが、そのためにはまず、もう一つのピースと繋がる必要がありますね」
私は地図上の一点、リューン近郊の森を指し示す。
「クラウスさん。森の『賢者』に関する追加情報を。彼女の性格、好み、そして警備の抜け穴。どんな些細なことでも構いません。……彼女に会うための鍵を見つけなければ」
私の大胆不敵な二つの指示。それは、この混沌を一気に打開するための起死回生の一手だった。
クラウスは私の真意を悟り、その目に鋭い光を宿らせる。
「……御意に。至急、確認いたします」
「よし、決まりですね」
私はポン、と手を叩いた。
「では、その追加情報が手に入り次第、今日の夕刻、三人でもう一度出かけましょうか」
「……三人?」
「はい。私と、ヴォルフラムさんと、クラウスさんで。『蜘蛛の糸』の彼と直接会って、今後の打ち合わせをします」
私のあまりにあっけらかんとした物言いに、ヴォルフラムはまだついていけない、といった顔で頭を抱えている。
だが、作戦の歯車はもう止まらない。
国王と、賢者。
二つの重要人物との接触。
『夜明けの梟』作戦は、いよいよその核心へと足を踏み入れようとしていた。