第7話:『不味いシチューと厨房の取引』
「――以上だ! 各隊、ただちに行動を開始せよ!」
グレイグ司令官の一喝で、長く、そして心臓に悪かった初めての作戦会議は幕を閉じた。隊長たちは、興奮と緊張が入り混じった表情で足早に天幕を出ていく。最後に残ったグレイグは、私の車椅子に近づくと、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「なかなか様になっていたぞ、軍師殿。途中、何度か猫みたいな声が出そうになっていたがな」
「……っ!」
(バレてた! 絶対にバレてた!)
私はフードの奥で顔を真っ赤にした。この男、人の弱みを握って楽しむタイプだ。最悪だ。
「リナ」
不意に、真面目な声で呼ばれ、私はびくりと顔を上げた。
「お前の分析が正しければ、これは大きな勝利になる。だが、もし間違っていれば……多くの兵が死ぬ。分かっているな?」
その瞳は、先程までのふざけた光を消し、方面軍司令官としての鋭い輝きを宿していた。
「……はい。分かって、います」
変声器を通さない、私の素の声が小さく震えた。そうだ、これは遊びじゃない。私の言葉一つで、人の命が動くのだ。その重圧に、今さらながら全身が凍りつくようだった。
「……セラ。軍師殿を自室まで送ってやれ。それから、食事も運んでやれ。今日は疲れただろう」
グレイグはそう言い残すと、颯爽と天幕を出ていった。その背中は、やはりこの泥濘の戦場を束ねる将の風格に満ちていた。
セラ副官は、無言で私の車椅子を押し始めた。天幕を出ると、外はもう夕闇に包まれている。
「あの……セラ副官」
「……何かしら」
「ありがとうございました。助けていただいて」
私がさっき、隊長たちに詰め寄られた時のことを言うと、彼女は少しだけ歩調を緩めた。
「……別に。あなたがうろたえて、作戦に支障が出ると困るからよ。勘違いしないで」
ツン、と澄ました声。でも、車椅子を押すその手つきは、どこまでも優しかった。
私に割り当てられたのは、粗末な個室天幕だった。硬い寝台と小さな木の机があるだけ。それでも、孤児院の雑魚寝に比べれば天国だ。
しばらくして、セラ副官が夕食を運んできてくれた。木の盆の上には、黒パンと、謎のシチューが盛られた深皿が乗っている。
「さあ、食事よ。冷めないうちに食べなさい」
「ありがとうございます!」
私はお腹がペコペコだった。緊張でエネルギーを使い果たしたのだ。セラ副官が去った後、私は早速、スプーンでシチューを一口、口に運んだ。
そして、固まった。
(……まずいっ!!)
なんだこれは。味がない。いや、違う。味がしない塩水に、煮崩れて正体不明になった野菜の残骸と、筋張ってゴムのような肉片が浮いている、という表現が正しい。味覚への暴力だ。孤児院のカチカチの黒パンと水っぽいスープの方が、まだ百倍はマシだった。
これが、帝国軍の食事……? こんなものを毎日食べて戦っているなんて、兵士たちの士気が上がらないのも無理はない。むしろ、よく反乱が起きないものだ。
私は黒パンを無理やり喉に押し込み、シチューには手をつけずに皿を下げた。このままでは、私は戦う前に栄養失調で倒れてしまう。
(……こうなったら、やるしかない)
前世では、しがない会社員だったが、唯一の趣味が料理だった。節約のために始めた自炊は、いつしか週末にスパイスからカレーを作るレベルにまで達していた。この世界に来てからも、孤児院の厨房を借りて、限られた食材で工夫を凝らした経験がある。
翌朝、私は意を決して、グレイグ司令官の元を訪れた。
「閣下! お願いがございます!」
「なんだ、軍師殿。朝から騒々しいな」
執務机で報告書に目を通していたグレイグは、面倒くさそうに顔を上げた。
「厨房の使用許可をいただきたく!」
「厨房? 何に使う。毒でも作る気か?」
「食事です! 自分で、自分の食事を作らせていただきたいのです!」
私の切実な訴えに、グレイグはきょとんとした顔をした。
「……昨日のシチューが、そんなに不味かったか」
「はい! あれは人間の食べるものではありません!」
あまりにきっぱりと言い切った私に、彼は腹を抱えて笑い出した。
「カカカッ! 言うじゃねぇか! よし、面白い。許可しよう。ただし、食中毒でも起こしたら、お前を鍋で煮込むからな」
許可を得た私は、早速、セラ副官に案内されて厨房へと向かった。
そこは、想像通り、大雑把で衛生観念の欠片もない場所だった。だが、幸いなことに食材は豊富に蓄えられていた。干し肉、塩漬けの魚、カチカチの豆、根菜類、そして様々な種類のスパイス。これだけあれば、何とかなる。
私はローブの袖をまくり、まず、干し肉と野菜の切れ端から丁寧に灰汁を取りながら出汁を取った。豆は一晩水につけて柔らかく煮込み、少量のスパイスと岩塩で味を調える。黒パンは薄く切って、干し肉から染み出た脂でカリカリに焼いた。
出来上がったのは、具沢山の豆のスープと、ガーリックトーストもどき。素朴だが、栄養バランスも考えた、今の私にできる最高の食事だ。
私が小さなテーブルで、至福の表情を浮かべてスープを啜っていると、不意に、背後からにゅっと手が伸びてきた。そして、私のガーリックトーストもどきを、ひょいっと一枚つまんでいった。
「――んっ!?」
振り返ると、そこにはいつの間にか現れたグレイグが、私のパンを無遠慮に口に放り込んでいるところだった。
「……ほう」
彼はパンを咀嚼しながら、目を丸くしている。
「閣下! それは私の……!」
「美味いじゃないか。なんだこれは」
彼は私の抗議を無視すると、今度は私のスープの器をひったくり、ずずっ、と一口啜った。
「!! ……なんだ、この滋味深い味は。ただの豆のスープじゃないのか」
その驚愕の表情に、私はしてやったり、と胸を張った。
グレイグはしばらく無言で私の顔とスープを交互に見ていたが、やがてニヤリと、悪魔のような笑みを浮かべた。
「リナ。取引だ」
「は?」
「明日から、俺の分の食事も作れ。そうすれば、今後、お前がこの厨房を自由に使うことを許可しよう。最高の食材も、優先的に回してやる」
「……ええっ!? それは職権乱用では!?」
(私の了承は!? 私の貴重な休憩時間が!)
私が抗議しようとした、まさにその時。
「閣下! そのような特別待遇は、看過できません!」
鋭い声と共に、セラ副官が厨房に踏み込んできた。彼女は私たちのやり取りを聞いていたらしい。
(そうだ、もっと言ってやれ、セラ副官! 公私混同も甚だしい!)
私が心の中でセラ副官に声援を送っていると、彼女はグレイグをまっすぐに見据えて、こう続けた。
「ご自分おひとりだけで、このような美味しいものを独占されるおつもりですか! それは、部下を預かる将として、あるまじき行為かと!」
グレイグが、きょとんとした顔で固まる。(そっちか!?)
「……つまり、お前も食いたいと、そう言っているのか?」
「はっ! 軍師殿の負担にならぬ範囲で、閣下のおこぼれを頂戴できればと!」
きりっとした顔で、セラ副官が敬礼する。
「……よし。お前も食べてよし」
「はっ! ありがとうございます!」
取り残されたのは、私だけだった。
(……あの、私の意思はどこへ……? まあ、厨房が自由に使えるようになって、食材も手に入るなら……悪くない、のか……?)
こうして、私は謎の軍師に加えて、東部戦線の司令官と副官、二人のお抱え料理人という、新たな役職を不本意ながら拝命することになったのだった。
明日から、ちょっとだけ食事が楽しみになったかもしれない。