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第7話:『不味いシチューと厨房の取引』


「――以上だ! 各隊、ただちに行動を開始せよ!」


グレイグ司令官の一喝が、張り詰めた天幕の空気を震わせた。

長く、心臓に悪いほど濃密だった初めての作戦会議が、その一言で幕を閉じる。隊長たちは興奮と緊張をないまぜにした硬い表情で立ち上がり、足早に天幕を出ていく。土を踏む荒々しいブーツの音が遠ざかっていく。


最後に残ったグレイグが、私の車椅子へとゆっくり近づいてきた。その口元には、ニヤリと意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「なかなか様になっていたぞ、軍師殿。途中、何度か猫みたいな声が出そうになっていたがな」

「……っ!」

フードの奥で、顔に一気に血が上るのがわかった。

(バレてた! 絶対にバレてた!)

この男、人の弱みを握って楽しむ性質だ。最悪だ。


「リナ」

不意に、真剣な声で呼ばれ、私はびくりと顔を上げた。

「お前が解読した情報、俺は信じる。この作戦の責任は、全て司令官である俺が負う。お前は何も気にするな」

その瞳から、先程までのふざけた光は消えていた。方面軍司令官としての、揺るぎない覚悟を宿した輝き。予想外の言葉に、私は戸惑って彼を見上げるしかなかった。

「……だがな」

と、彼は続ける。

「お前の言葉が、これから多くの兵士の命を左右する出発点になる。その事実からだけは、目を逸らすな。それがお前に必要な覚悟だ。この泥沼で俺たちと共に在るということはそういう事だ」


子供扱いではない。同じ戦場に立つ「仲間」として、現実を直視させようとする、不器用で、けれど誠実な言葉だった。

「……はい。覚悟は、できています」

変声機を通さない私の声が、小さく震えた。そうだ、これは遊びじゃない。私の言葉一つで、人の命が動く。その重圧から逃げないと決めたのは、私自身なのだ。


「よし」

グレイグは短く言うと、大きな手を私の頭に置き、わしっと一度だけ乱暴に撫でた。

「俺とセラは明日から二日間、前線の指揮を執る。決戦は三日後の夜明けだ。それまで、お前はこの拠点で待機。何か異変があれば、すぐに知らせろ」

そして、背後を振り返り、

「……セラ。軍師殿を自室まで送ってやれ。食事も運べ。今日は疲れただろう」

そう言い残すと、グレイグは颯爽と天幕を出ていった。その背中は、やはりこの泥濘の戦場を束ねる将の風格に満ちていた。


セラ副官が無言で私の車椅子を押し始める。天幕を出ると、ひんやりとした風が頬を撫でた。空はもう夕闇に包まれ、遠くでかがり火が揺れている。

「あの……セラ副官」

「……何かしら」

「ありがとうございました。助けていただいて」

先ほど、隊長たちに詰め寄られた時のことを言うと、彼女の歩調がほんの少しだけ緩んだ。

「……別に。あなたがうろたえて作戦に支障が出ると困るからよ。勘違いしないで」

ツン、と澄ました声。でも、車椅子を押すその手つきは、どこまでも優しかった。


割り当てられたのは、粗末な個室天幕だった。硬い寝台と小さな木の机があるだけ。それでも、孤児院の雑魚寝に比べれば天国だ。

ほどなくして、セラ副官が夕食を運んできた。木の盆の上には、黒々としたパンと、謎のシチューが盛られた深皿が乗っている。

「さあ、食事よ。冷めないうちに食べなさい」

「ありがとうございます!」

緊張で空っぽになったお腹が、ぐぅ、と鳴った。セラ副官が去った後、私は早速スプーンを手に取り、シチューを一口、口に運んだ。


そして、固まった。


(……まずいっ!!)


なんだこれは。味がしない。いや、違う。味がしない塩水に、煮崩れて正体不明になった野菜の残骸と、筋張ってゴムのような肉片が浮いている、という表現が正しい。これは味覚への暴力だ。孤児院のカチカチの黒パンと水っぽいスープの方が、まだ百倍はマシだった。

これが、帝国軍の食事……? こんなものを毎日食べて戦っているのか。兵士たちの士気が上がらないのも無理はない。むしろ、よく反乱が起きないものだ。


私は黒パンを無理やり喉に押し込み、シチューには手をつけずに皿を下げた。このままでは、戦う前に栄養失調で倒れてしまう。

(……こうなったら、やるしかない)

前世のしがない会社員だった私には、料理という唯一の趣味があった。節約のために始めた自炊は、いつしか週末にスパイスからカレーを作るレベルにまで達していた。この世界に来てからも、孤児院の厨房を借りては、限られた食材で工夫を凝らしてきたのだ。


翌朝。グレイグとセラ副官が前線へ出発する直前、私は意を決してグレイグを捕まえた。

「閣下! お願いがございます!」

「なんだ、軍師殿。朝から騒々しいな」

馬にまたがろうとしていたグレイグが、心底面倒くさそうに振り返る。

「厨房の使用許可をいただきたく!」

「厨房? 何に使う。毒でも作る気か」

「食事です! 自分で、自分の食事を作らせていただきたいのです!」

私の切実な訴えに、グレイグはきょとんとした顔をした。

「……昨日のシチューが、そんなに不味かったか」

「はい! あれは人間の食べるものではありません!」

あまりにきっぱりと言い切った私に、彼は腹を抱えて笑い出した。

「カカカッ! 言うじゃねぇか! よし、面白い。許可しよう。ただし、食中毒でも起こしたら、お前を鍋で煮込むからな」


許可を得た私は、早速、当番の兵士に案内されて厨房へと向かった。

そこは想像通り、大雑把で衛生観念の欠片もない場所だったが、幸いにも食材は豊富に蓄えられていた。干し肉、塩漬けの魚、カチカチの豆、根菜類、そして数種類のスパイス。これだけあれば、何とかなる。


袖をまくり、まずは干し肉と野菜の切れ端から丁寧に灰汁を取りながら出汁を取る。豆はしっかり水につけて柔らかく煮込み、少量のスパイスと岩塩で味を調える。黒パンは薄く切って、干し肉から染み出た脂でカリカリに焼いた。

出来上がったのは、具沢山の豆のスープと、ガーリックトーストもどき。素朴だが、栄養バランスも考えた、今の私にできる最高の食事だ。


小さなテーブルで、至福の表情を浮かべてスープを啜っていると、厨房の入り口に人影が立った。作戦から戻ってきたグレイグとセラ副官だった。二人は泥と疲労にまみれている。

「……なんだ、その美味そうな匂いは」

グレイグが、猟犬のように鼻をひくつかせて近づいてくる。そして、私のガーリックトーストもどきを、ひょいっと一枚つまみ上げた。


「――んっ!?」

振り返ると、そこにはグレイグが、私のパンを無遠慮に口に放り込んでいる姿があった。

「……ほう」

彼はパンを咀嚼しながら、目を丸くしている。

「閣下! それは私の……!」

「美味いじゃないか。なんだこれは」

私の抗議を無視すると、今度は私のスープの器をひったくり、ずずっ、と一口啜った。

「!! ……なんだ、この滋味深い味は。ただの豆のスープじゃないのか」

その驚愕の表情に、私はしてやったりと胸を張った。


グレイグはしばらく無言で私の顔とスープを交互に見ていたが、やがてニヤリと、悪魔のような笑みを浮かべた。

「リナ。取引だ」

「は?」

「明日から、俺の分の食事も作れ。そうすれば、今後、お前がこの厨房を自由に使うことを許可する。最高の食材も、優先的に回してやる」

「……ええっ!? それは職権乱用では!?」

(私の了承は!? 私の貴重な休憩時間が!)


私が抗議しようとした、まさにその時。

「閣下! そのような特別待遇は、看過できません!」

鋭い声と共に、セラ副官がグレイグの隣に立った。彼女は私たちのやり取りを物陰から聞いていたらしい。

(そうだ、もっと言ってやれ、セラ副官! 公私混同も甚だしい!)

私が心の中でセラ副官に声援を送っていると、彼女はグレイグをまっすぐに見据えて、こう続けた。


「ご自分おひとりだけで、このような美味しいものを独占されるおつもりですか! それは、部下を預かる将として、あるまじき行為かと!」

グレイグが、きょとんとした顔で固まる。(そっちか!?)

「……つまり、お前も食いたいと、そう言っているのか?」

「はっ! 軍師殿の負担にならぬ範囲で、閣下のおこぼれを頂戴できればと!」

きりっとした顔で、セラ副官が敬礼する。


「……よし。お前も食べてよし」

「はっ! ありがとうございます!」


取り残されたのは、私だけだった。

(……あの、私の意思はどこへ……? まあ、厨房が自由に使えるようになって、食材も手に入るなら……悪くない、のか……?)


こうして、私は謎の軍師に加えて、東部戦線の司令官と副官、二人のお抱え料理人という、新たな役職を不本意ながら拝命することになった。

明日からの戦陣の食事が、ほんの少しだけ楽しみになったかもしれない。



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― 新着の感想 ―
変装したまま料理したの? 8歳の少女のまま厨房うろつくほうが何か言われそうだが。
軍事物資を一人の為に好きにさせるって、無いのでは? 燃料も計算されて、補給されてると思う 一度位は未だしも、何度もやってちゃ、計算が狂う 厨房係が居るのも、まとめて作って、効率良くする為では? 美…
はいもうリナ、グレイグ、セラたんが好きになりましたと
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