第62話:『天才の証明と、精霊の囁き』
帝都の喧騒が嘘のように遠い。
北のマキナから『囁きの小箱』が届くまでのつかの間の静寂は、私の内に燻っていた危険な好奇心と向き合うには、十分すぎる時間だった。
「……誰にも見られず、試せるのはここしかない」
呟きは、ひんやりとした空気に吸い込まれていく。
私が足を運んだのは、滞在する貴族の館の地下、忘れ去られたように存在する古い修練場だった。分厚い石扉に鍵を下ろせば、そこは完全な密室となる。かつて剣戟の音が響いたであろう空間は、今や埃の匂いに満ち、壁の魔導灯の光だけがぼんやりと足元を照らしていた。
修練場の中央に運び込ませた黒い岩へ、そっと手を触れる。
石の肌は、ひんやりとして冷たい。
びっしりと刻まれた渦巻く紋様――古代神聖語。見慣れないはずの文字の羅列を目で追うだけで、その「発音」が、とうの昔に知っていた歌のように、頭の奥で自然と旋律を奏で始める。
喉が渇く。
心臓の音がやけに大きく聞こえた。
私はおそるおそる、まずは最も無害そうな言葉を唇に乗せた。声が、微かに震える。
「《岩よ、水を滲ませよ》」
瞬間。
黒い岩が、ぽうっ、と内側から淡い光を放った。
そして、その表面にじわりと汗をかくように清らかな水滴が滲み出し、ぽつ、ぽつ、と床の石畳に小さな染みを作っていく。
「……っ!」
思わず息を呑む。声にならない悲鳴が喉に詰まった。
早鐘を打つ心臓。驚きと、それを上回る抗いがたい興奮が全身を駆け巡る。
近くの水差しから空のコップを掴み取ると、私はもう一度、今度はもっとはっきりと願った。
「《この器を満たせ、清き水よ》」
虚空が微かに歪み、きらりと光ったかと思うと、コップの中へ、じゃばっ!と勢いよく水が注がれた。まるで目に見えない水差しがあるかのように。寸分違わず器を満たした水は、静かに揺らめいている。
「……すごい……! 言葉が、本当に現象を……!」
私の三十路の魂に宿る探究心に、火が点いた。
衝動のままに、次々と思いつく言葉を紡いでいく。
「《風よ、吹け!》」
修練場の淀んだ空気は、微動だにしない。
「《空間よ、輝け!》」
壁の魔導灯が、気まぐれに揺らめくだけ。
「《土よ、盛り上がれ》」
床の土間部分が淡く光り、もこっ!と、まるで意思を持たぬ生き物のように静かに隆起した。
「ひっ……!」
慌てて後ずさる。
なんだ、この違いは。できることと、できないこと。水と土は応じて、風と光は応えない。世界の根源的な法則、その断片に、今まさに触れている。
私はハッとして、最後の、そして最も重要な実験へと移った。
懐からペンナイフを取り出す。意を決して左手の人差し指の先を、ほんの少しだけ切りつけた。ぷくり、と赤い血の玉が浮かび上がる。
私はその指を、岩の前にかざした。
「《この傷を癒す聖水を、一滴ここに》」
指先のすぐ上の空間が、ふわりと柔らかな光を帯びた。
傷口の上に、光そのものが凝縮したかのような輝く水滴が現れる。それは震える指先に静かに降り立ち、傷を濡らした。
すると――。
「……おお……」
切り傷が、すぅっと時間を巻き戻すかのように塞がっていく。
痛みも、赤い筋も跡形もなく消え去り、そこには元通りの滑らかな肌があるだけだった。
(……確定だ。これは、本物の……)
ごくり、と喉が鳴る。
『聖女』が使うという奇跡の一端に、触れてしまった。しかも、その法則性が全く分からないという新たな疑問と共に。
(この力のこと、誰かに……相談できる相手は……)
私の脳裏に、深い森の庵にいるという『賢者』の姿が、ぼんやりと浮かんでいた。
◇◆◇
開発の指示がでた、その日の北の『技術研究局』。
巨大な開発工房に響く槌の音と、飛び散る火花。その熱気の中心で、マキナが集まった職人たちを前に、最後の檄を飛ばしていた。
彼女の声は大きくない。だが、工房の隅々にまで染み渡るような、静かで絶対的な熱量を帯びていた。
「――聞け、諸君。我々が作るは単なる道具ではない。帝国の、いや、この戦の未来を左右する最重要機密だ」
彼女は、完成したばかりの黒光りする『囁きの小箱』を掲げてみせる。その無機質な輝きに、職人たちの視線が突き刺さった。
「お求めになっているのは『天翼の軍師』様ご本人だ。あの方が我々に何を期待しているか、分かるな? 一点の妥協も許さん。万が一、不具合でも起こしてみろ。……その時は私が貴様らをどうするか、まあ、分かっているとは思うがね」
静かな脅しに職人たちの顔が引きつる。だがその目には、恐怖ではなく、プロとしての誇りの炎が宿っていた。
そして数日後。約束の日を待たずして。
帝都の私の元へ、シュタイナー中将直属の最速伝令部隊が、一つの頑丈な木箱を届けてきた。
蓋を開けると、完璧な出来栄えの『囁きの小箱』が四対、緩衝材の中に静かに鎮座している。添えられたマキナからの手紙には、彼女らしい乱暴な文字が踊っていた。
「無茶ぶり、ありがとよ! 約束通り、完璧なブツを作ってやったぜ! 貸し一つだからな、リナ!」
私はその小さな箱を一つ手に取り、静かに微笑んだ。
(……ありがとう、マキナさん。これで、役者は揃った)
物語は、いよいよ旅立ちの時が来たことを告げていた。