第60話:『黄昏の王宮と茶番の謁見』
アルカディア王国の王宮は、かつての栄光が美しい屍蝋のようにこびりついた場所だった。
磨き上げられたはずの大理石の床は冷たく沈み、天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、無数のガラス片が虚ろな光を反射するだけ。その輝きは、もはや誰の心をも照らすことはない。
玉座に深く沈み込むように座る国王レオナルド三世の、生気のない瞳が宙を彷徨う。
その耳に突き刺さるのは、我が子の死を嘆く、空々しくも悲痛な声。
「――陛下! 勇敢に戦い、誉れ高く散っていった我が息子バルガス、そして若き兵士たちの無念を、どうか晴らしたもう!」
声を張り上げているのは、先の戦で息子を失ったバルガス侯爵。その顔は悲しみに歪んでいるように見えるが、乾ききった瞳の奥に涙は一滴もない。あるのは、この悲劇を次なる利権へと繋げんとする、醜くギラついた欲望の光だけだ。
「騎士の誉れを汚し、薄汚い策を弄したあの卑劣なる帝国に、償いとして領土を割譲させるべきです! 今こそ我が王国が、正義の鉄槌を下す時!」
「そうだ、そうだ!」「帝国の非道を許すな!」
まるで稽古を重ねた舞台役者のように、周囲の貴族たちが次々と同調の声を上げる。
彼らの頭にあるのは息子の復讐でも、国の未来でもない。新たな戦争という名の宴、その混乱に乗じて貪る甘い蜜。ただ、それだけだ。
その傍らで、次期国王たる第一王子が、興味もなさそうに優雅な欠伸を袖で隠す。彼はもはや、このハイエナたちの意のままに動く、美しい操り人形に過ぎなかった。
国王レオナルドは、その茶番劇をただ黙って聞いていた。
何かを言えば、十の言葉で反論される。
何かを命じても、自分たちの都合の良いように捻じ曲げられる。
この玉座は権力の象徴ではない。孤独な老人のための、豪華すぎる椅子でしかなかった。
その淀みきった空気を、刃のように切り裂いたのは、謁見の間の隅で壁に寄りかかっていた一人の男だった。
『剣聖』ハヤト。
彼は貴族たちの演説が終わるのを待って、まるで道端の石でも蹴るように、気怠く一歩前に出た。
「けっ。どうでもいい話は終わったかよ」
あまりに不敬な物言いに、貴族たちが色めき立つ。
「な、なんだと剣聖殿!」「陛下の御前であるぞ!」
だがハヤトは、騒ぐ彼らを虫けらでも見るように一瞥しただけだった。彼の視線は、ただ玉座の上の王だけを射抜いている。
「王様よ。時間の無駄だ。あんたらのままごとに付き合う暇はねぇ」
吐き捨てるような声が、やけに静かな謁見の間に響いた。
「……少し自由にさせてもらうぜ。あのふざけた軍師だけは、この俺の手で落とし前をつけねぇと気が済まねぇ」
「待て、ハヤト殿! 勝手な行動は許さ……」
宰相が慌てて制止しようとするが、ハヤトはそれを鼻で笑った。
「あんたらに、俺を止められんのか?」
その一言が、その場の全ての言葉を殺した。
彼はそう言い放つと、王の返事を待つこともなく謁見の間に背を向けた。
その傲岸不遜な背中を、誰も止めることはできない。やがて『聖女』マリアもまた、静かに、しかし有無を言わせぬ優雅さで一礼すると、彼の後を追うように退出していった。
英雄たちが去っていく。
貴族たちはただうろたえ、互いの顔を見合わせるばかり。
やがて謁見が終わり、一人、がらんとした玉座にレオナルドは取り残された。
シャンデリアの光が、やけに目に染みた。
彼の心の中を、冷たい霧のような絶望が満たしていく。
(……国民たちよ……すまない……。この老いぼれた私には、もはやこの国をどうすることもできん……)
英雄は敵の軍師に仕返しする事しか考えていない。
貴族は国を食い荒らすハイエナに。
そして王は、無力な案山子に。
この国は、どこで道を間違えてしまったのか。
(……残された道は一つか……。私一人の首を帝国に差し出し、停戦を乞う……。だが、その後、この国は……一体どうなる……)
その時、彼の脳裏に、忘れかけていた希望の光が微かに灯った。
聡明で、正義感が強く、誰よりも民を愛していた三番目の息子の面影。
(……アルフォンス……。お前は今、どこにおるのだ……。この腐りきった国を、お前に託すことしか、わしには、もう……)
王の孤独な嘆きは、誰に聞かれることもなく。
黄昏に沈む広すぎる王宮の中へ、虚しく吸い込まれていった。