第59話:『番犬の牙と影の襲撃者』
夜は静かに更けていく。
帝都の館、私の書斎に響くのは、羊皮紙をめくる乾いた音ばかりだ。
窓の外は新月の闇。揺らめく蝋燭の炎が、壁一面の書架と机上の地図に、頼りない光と影を落としている。王国への潜入ルートを示す複雑な線が、まるで生き物のように蠢いて見えた。
部屋の隅に設えられた小さな椅子。
そこに、ヴォルフラムは彫像のように座っていた。
気配を殺し、目を閉じている。一見すれば、穏やかな眠りに落ちているかのようだ。
だが、その静けさは眠りとは似て非なるもの。閉じられた瞼の下で、彼女の全神経が闇へと張り巡らされている。夜風が窓を撫でる音、遠い虫の音、そして私の微かな衣擦れさえも、彼女の耳は一つ残らず拾い上げていた。
彼女は眠っているのではない。
主の安寧を脅かすものが現れるその一瞬を、ただ息を殺して待ち構えているのだ。
その瞬間は、唐突に訪れた。
ふっ、と。
窓の外の闇に、異物が混じった。
夜風でも虫の声でもない。訓練された者だけが放つ、研ぎ澄まされた死の匂い。
本物の暗殺者だ。
黒い影が音もなく窓枠に手をかけ、室内へ滑り込もうとした、まさにその刹那――
――閉じていたはずの、ヴォルフラムの目がカッと見開かれた。
椅子を蹴る音すらなかった。
ただ、一陣の風が室内を駆け抜け、蝋燭の炎を激しく揺らす。
目で追うことさえ叶わない。
闇の中に、抜き放たれた剣が一筋の閃光を描いた。
ドォォォンッ!
次いで、肉と骨が砕ける鈍い衝撃音が、部屋の反対側の壁から響いた。
私が驚きに顔を上げた時には、全てが終わっていた。
黒装束の暗殺者が、壁に叩きつけられた雑巾のように大の字になってめり込んでいる。そしてその喉元には、ヴォルフラムの剣の切っ先が、寸分の狂いもなく突き立てられていた。
「――リナ様に近づく不埒者は、誰であろうと私が塵も残さず殲滅する」
氷のように冷たい声が、静まり返った書斎に響く。
その瞳に、先ほどまでのしょんぼりとした忠犬の面影は微塵もない。主の巣を荒らす害獣を睨みつける、獰猛な番犬の目だけがそこにあった。
扉が勢いよく開き、グレイグやライナーが血相を変えて飛び込んでくる。
彼らが見たのは、完全に気を失っている侵入者と、その上でなお剣を構え、荒い息をつくヴォルフラムの姿だった。
「大丈夫か、リナ! ……ヴォルフラム殿、そいつは……殺してはいないだろうな!?」
グレイグが叫ぶ。
「はっ! 申し訳ございません!」
その声に我に返ったように、ヴォルフラムは流れるように剣を収め、私に向かって深く頭を下げた。
「リナ様への明確な脅威と認識できましたので、つい身体が……。ですがご安心を。峰打ちで骨を数本折っただけに留めておきました」
その悪びれない報告に、グレイグもライナーも、引きつった笑みを浮かべるしかない。
私は、自らの新しい「番犬」のあまりの忠実さと、その圧倒的な力に、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。この過保護で石頭で、そして誰よりも強い副官と、二人きりで敵国に潜入する。その旅路が一筋縄ではいかないことを、改めて覚悟させられた。
だが同時に、これほど頼もしい味方もいないだろうと、胸の内で確信するのだった。