第58話:『過保護な番犬と絶対命令』
作戦会議の翌日から、私の平穏な日常は、一人の、あまりにも実直すぎる副官によって、脅かされることになった。
ヴォルフラム。
シュタイナー中将が、私の「お目付け役」として送り込んできた彼女の忠誠心は、ある意味、常軌を逸していた。
私が、『天翼の軍師』として、執務室で山のような書類と格闘していると、背後に、常に、石像のような気配を感じる。
振り向けば、案の定ヴォルフラムが、微動だにせず仁王立ちしているのだ。その視線は窓の外を警戒しつつも、その意識の九割が私に集中しているのがひしひしと伝わってくる。
「……ヴォルフラムさん。少し、圧が……。もうちょっと離れていただけると助かるのですが……」
「はっ! 失礼いたしました! ……この辺りで、よろしいでしょうか!」
彼女は、カクカクとした動きで、一歩だけ、後ろへ下がる。
「……も、もう少し……」
「はっ! では、この辺りで!」
さらに一歩。その生真面目さが、逆に、私の集中力を、ゴリゴリと削っていく。
「……ああ、もう! 分かりました! ドアの前で、待機していてください!」
「……はっ……」
しゅん……とした気配を背中に漂わせながら、彼女は、言われた通りドアの前へと移動した。その背中が、明らかにしょんぼりと落ち込んでいるのが見て取れた。
彼女のその過剰なまでの忠誠心は、休憩時間にさらにエスカレートした。
「セラさん、すみません。少し、ケーキでも……」
私が、いつものように、セラさんに声をかけた、その瞬間。
「――(ガタッ!)」
ドアの前で待機していたはずのヴォルフラムが、凄まじい勢いで、立ち上がった。
「セラ副官! そのような雑務は、私が! リナ様の、お口に入れるものです! 毒見も、この私が、完璧に行います!」
「あらあら」
セラさんは楽しそうに微笑みながら、お盆をヴォルフラムに渡す。
ヴォルフラムは、まるで皇帝陛下に献上する宝物でも運ぶかのように、恭しくそして尋常ならざる真剣な顔で、ケーキと紅茶をしっかりと吟味してから、私の前にそっと置いた。その顔は、「この一皿に、私の全てを懸けております」と、語っているようだった。
そしてその日の夜。事件は起こった。
一日の仕事の汗を流そうと、湯浴みの準備をしていた時のことだ。
私がタオルで身体を拭こうとした、まさにその瞬間。
「――わ、私がッ!!」
バァン! と、扉が勢いよく開かれた。
そこに立っていたのは、鼻息を荒くしている、ヴォルフラムだった。
「リナ様の、その御身に万が一のことがあっては! このヴォルフラムがお手伝いいたします!」
「…………」
私は、ドン引きした。心の底から。
「……ヴォルフラムさん……。やりすぎです」
「はっ! し、しかし! 湯浴み中は、最も無防備な……!」
「出ていってください! 今すぐ!」
結局彼女は、涙目で部屋から出て行った。
私は、このままでは潜入作戦どころか、自分の正体が味方にさえバレてしまうと強い危機感を覚えた。リナの時に、うっかり同じような事をされれば、一巻の終わりだ。
翌朝、私は、ヴォルフラムを呼び出し、改めて、厳命した。
「いいですか、ヴォルフラムさん。私が、『リナ』として、この館の中を歩いている時は、絶対に、私に近づかないこと。話しかけるのも、禁止です。これは、私の機密に関わる、最重要命令です。……分かりましたね?」
「……りょ、了解……いたしました……」
その声は、まるで飼い主に「待て」を厳しく命じられた大きな犬のように、悲しげに震えていた。
その日の午後。廊下の隅で、リナとして歩いている私を、柱の陰からじっと、しかし決して近づかずに見つめるヴォルフラムの姿があった。
その目は、潤んでいるように見えた。
◇◆◇
夜。書斎に入ろうとした私は、ドアの前で、しょんぼりと佇んでいるヴォルフラムの姿に気がついた。
私が軍師の姿に戻ったことで、ようやく彼女は、私のそばに来ることができたのだ。
「……ヴォルフラムさん。もう、今日の警護はいいですよ。自室でゆっくり休んでください」
私が労いの言葉をかけると、彼女の肩が、ずーん、と、さらに沈み込んだ。
その、あまりにも分かりやすい枝垂れ柳のような落ち込みように、私はついに折れた。
「……はぁ……。分かりました、分かりましたから!」
私は、観念して言った。
「書斎の隅なら、好きに使ってくれて構いませんから! そこに椅子と、小さな机を用意させます。だから、そんな、世界の終わりのような顔をするのはやめてください……」
その言葉に、ヴォルフラムの顔が、ぱあっと輝いた。
「はっ! ありがとうございます、リナ様! 決して、ご迷惑には、ならぬよう、静かにしておりますので!」
こうして私の書斎の隅に、ヴォルフラム専用の「待機場所」が設置されることになった。
彼女はそこに座り、静かに目を閉じている。
その姿に、少しだけ安堵しながら、私は、夜更けまで、王国への潜入ルートの最終確認に、没頭していた。
彼女の存在が、今宵、とんでもない事態を引き起こすことになるとも知らずに。




