第57話:『作戦名は“夜明けの梟”』-
帝都の夜は深い静寂に包まれていた。
その中で、グレイグ中将が借り受ける貴族の館だけが、固く閉ざされた鎧窓の隙間から、密やかな光を漏らしている。表向きの宿舎、その奥深く。窓ひとつない書斎にこそ、帝国の未来を左右する者たちが集っていた。
揺らめく蝋燭の炎が、壁を埋める書架と巨大な作戦地図に踊るような影を落とす。革と古い紙の匂いが満ちる部屋で、地図を囲む六つの影はじっと息を潜めていた。
「――以上が、我が『影の部隊』が持ち帰った情報の全てです」
ライナー・ミルザの静かな報告が終わり、部屋の空気は剃刀の刃のように張り詰めた。彼の隣では、王国の泥をその身に浴びてきた部下のクラウスが、固い表情で呼吸すら忘れている。グレイグ、セラ、ヴォルフラムの三人は、地図に記された「リューン」の街を、険しい目つきで睨みつけていた。
その中心で、フードを目深にかぶった小柄な影が動いた。
変声機を通した無機質で重い響きが、蝋燭の炎を揺らす。
「ライナー、クラウス、ご苦労だった。……諸君。これより、私は次の作戦への移行を決断する」
一瞬。全ての視線が、その影――『天翼の軍師』に突き刺さった。
「作戦名は、『夜明けの梟』」
言葉の響きに、誰もが息を呑む。
「目的はアルフォンス王子との直接接触。彼が我らの『協力者』となり得る器か、この目で見極める。もし本物ならば、王国を内から覆す最強の切り札となろう」
「……国を乗っ取るのではなく、立て直させる、か」
グレイグが、呻くように呟いた。
「潜入チームは私とヴォルフラム。そして案内役としてクラウスにも同行してもらう」
「はっ!」
名を呼ばれ、クラウスの背筋が弾かれたように伸びた。
そして軍師は、この作戦の要となる人事を淡々と告げる。
「後方支援の全ては、セラ副官に一任する」
その瞬間、氷の人形然としていたセラの表情に、初めて亀裂が走った。
「お、お待ちください、軍師殿! 私の任務は貴女の護衛! なぜ私が後方に……!」
悲鳴にも似た声が、静寂を切り裂いた。
軍師は、ゆっくりと彼女へ向き直る。
「セラ。この複雑な後方支援を完璧にこなせる者は、君をおいて他にいない。補給、通信、情報統制、その全てが君の双肩にかかっている。これは一個人の護衛を遥かに超える最重要任務だ。……私は、君の能力を信頼している」
絶対の信頼を込めた言葉。セラはぐっと唇を噛み締め、その蒼い瞳の中で命令への反発と主君への信奉が激しくせめぎ合う。やがて、絞り出すような声が震えながら応えた。
「……御意に……。必ずや、任務を果たしてご覧に入れます」
次に、軍師はライナーと視線を合わせた。
「ライナー隊長には『影の部隊』の残りを率いて国境付近の秘密拠点に潜んでもらう。潜入チームに不測の事態が起きた際の、全ての現場判断と即時対応を君に託す」
その命令に秘められた絶大な信頼と、失敗した際の責務の重さ。ライナーは言葉なく、しかしその双眸に揺るぎない覚悟を宿し、深く頭を垂れた。
「……承知した。この命に代えても、貴殿の信頼に応えよう」
床に硬質な音を立て、ヴォルフラムが迷いなく片膝をつく。
「このヴォルフラムがいる限り、軍師殿の髪一本たりとも誰にも触れさせはしません!」
役割分担を終え、軍師は改めてライナーとクラウスに向き直った。
「……さて。作戦の概要は以上だ。だが、この作戦にはまだ語っていない最高機密が存在する」
これまでとは質の違う、鋭利な緊張が空気を切り裂く。
「この機密は、潜入チームとそれを直接支援する者だけが知るべき事柄。……ライナー、クラウス。君たちにはそれを知る権利と、拒否する権利がある」
「……と、申されますと?」
「これから私が明かすものは、君たちの忠誠心を根底から揺るがすやもしれん。それを見た上で参加できないと判断したなら、今宵の記憶を忘れ部隊を去ることを許可しよう。……どうする? この先に進む覚悟は、あるか」
それは、諜報のプロに対する最大限の敬意だった。
ライナーとクラウスは一瞬顔を見合わせる。だが、その目に迷いはなかった。ライナーが、静かに口を開く。
「軍師殿。我らがあなた様に忠誠を誓ったあの日から、我らの命はあなた様と共にあります。いかなる機密であろうと、いかなる困難な任務であろうと、拝命する覚悟はできております。……どうかご命令を」
軍師は、静かに頷いた。
そして、ゆっくりとフードに手をかける。カチリ、と小さな音を立てて変声機のスイッチを切ると、偽りの軍師を形作っていた全てを、その身から外した。
蝋燭の光に照らし出されたのは、神のごとき智謀を持つ大軍師ではない。
まだあどけなささえ残る、一人の少女の素顔だった。
「…………」
部屋から音が消えた。ライナーもクラウスも、時を止められたかのように石化し、呼吸すら忘れている。常に冷静沈着を保ってきたライナーの鉄面皮が、音を立てて崩れ落ちた。その目に、驚愕、不信、そしてこれまでの戦いの記憶が嵐のように渦巻く。
(……この、子供が……? この小さな少女が、あの王国軍を手玉に取り……この私を、完膚なきまでに打ち破ったと……? ……ありえない……)
「驚かれたことでしょう。ですが、これが私です」
少女――リナが、初めて地声で語りかけた。その声はまだ高く澄んでいる。だがその響きには、幾多の戦場を潜り抜けてきた者だけが持つ、鋼のような覚悟が宿っていた。
「……改めて問います。あなた方は、この私に命を預けられますか?」
長い沈黙を破ったのは、ライナーだった。
彼は見開いた目のまま、まるで壊れた人形のようにぎこちなく、しかし確かな意思でその場に膝をついた。
「……軍師殿。……いえ、リナ様」
初めて呼ばれたその名が、部屋に響く。
「私は貴女の知謀に敗れ、その器に救われた。貴女の姿が子供であろうと老翁であろうと、もはや些末なこと。……このライナー・ミルザ、改めて、この命を貴女に捧げると誓います」
その言葉が引き金となり、クラウスもまた、ライナーに倣って深く膝をついた。
「我ら『影の部隊』、リナ様の剣となり、盾となることを誓います!」
グレイグは深く頷き、セラは、主君が新たな忠誠を得るこの瞬間を、その目に焼き付けていた。
会議を終え、私は一人、ペンを走らせる。
羊皮紙に刻んだのは、短い指令。
『無線通信機、四組、至急』
夜明けは、近い。




