第56話:『子供たちの秘密と答え合わせ』
リューンの朝は、石窯から漏れ出す香ばしいパンの匂いと、市場へ向かう人々の活気あるざわめきで始まる。
行商人クラウスは、荷馬車の陰で息を殺していた。昨日、酒場の喧騒の中で掴んだ微かな確信を、現実の姿へと変えるための最後の詰め。そのための準備を進めていた。
ライナー様が、命からがらこの街を駆け抜けた夜。
偶然耳にしたという、子供たちのひそひそ話。
『森のお姉ちゃん』と、『強くて優しいにいちゃん』。
そして、子供たちのおよその背格好と、会話が交わされた路地裏の場所。
それが、クラウスが持つ唯一にして最大の、脆くも確かな手がかりだった。
(……大人が見過ごし、気にかけぬもの。子供の噂話ほど、真実を突いているものはない)
ライナーに、そしてあの『天翼の軍師』に叩き込まれた諜報の基礎が、彼の血肉となっている。
クラウスは荷馬車から手品用の小道具と、帝国から持ってきた甘い木の実の砂糖漬けをいくつか懐に忍ばせた。そして、教えられた路地裏へと、何気ない顔で足を向ける。
そこは、市場の喧騒から一本外れた、陽だまりのような場所だった。子供たちの甲高い声が響き渡る、格好の遊び場。
案の定、数人の子供たちが石蹴りにはしゃいでいる。
その中に、ライナーが言っていた背格好とよく似た、そばかす顔の少年がいるのをクラウスは見逃さなかった。
彼は人の良さそうな笑みを口元に浮かべ、子供たちの前でひらりと掌を返す。指先にあったはずのコインが掻き消え、次の瞬間、指の間から色鮮やかな造花が咲いた。
「わーっ! すごい!」「おじさん、魔法使いなの!?」
子供たちの目はたちまち輝き、あっという間に彼の周りを取り囲んだ。
クラウスは内心でほくそ笑みながら、褒美だと言って、甘い砂糖漬けを一人ひとりの小さな手のひらに乗せてやる。
そして、狙いを定めていたそばかす顔の少年に、そっと声を潜めて囁いた。
「……坊や。君にはこれをあげよう。遠い北の国でしか採れない、特別な木の実なんだ」
クラウスが懐から取り出したのは、木の実ではなかった。一輪の、丁寧に押し花にされた小さな白い花。
それは、ライナーから密かに託されていたものだ。
『……もし、賢者殿に会えたなら、これを。……彼女が故郷の庭で、何よりも愛していた花だ』
少年は、きょとんとした顔でその押し花を受け取った。
「……きれい……」
「そうだろ? 君の、大切な『お姉ちゃん』にプレゼントしてあげるといい」
クラウスが静かに、だが確信を込めて告げると、少年の目がわずかに見開かれた。
「……なんで、おじさん……」
「君が前にお友達と話しているのを、たまたま耳にしてね。君は大きくなったら、『にいちゃん』みたいに強くて、みんなを守れるヒーローになりたいんだろう?」
その言葉は、彼らだけの秘密の合言葉を正確に射抜いていた。
少年は息を呑み、周りの友達と顔を見合わせる。目の前の行商人が、ただ人の良いだけの男ではないことを、子供たちの鋭い本能が感じ取っていた。
やがて少年は、覚悟を決めたように、こくりと頷いた。
◇◆◇
その日の午後。
クラウスは子供たちから得た情報を元に、まず“答え合わせ”へと向かった。
町の外れにある鍛冶工房を、客のふりをして訪れる。
カン、カン、とリズミカルな槌の音が、熱気と共に響いてきた。工房の中はむせ返るような鉄の匂いで満ちている。その中央で、上半身裸の青年が、汗を滝のように流しながら、真っ赤に焼けた鉄を一心不乱に叩いていた。
「ごめんください。旅の者だが、馬の蹄鉄が一つ駄目になってしまってね。打ち直してはもらえないだろうか」
クラウスが声をかけると、青年は作業の手を止め、こちらを振り向いた。
鍛え上げられた逞しい背中。振り下ろされる槌の力強さ。
だが、その顔には隠しようのない気品と、そして深い憂いの色が宿っている。
(……間違いない。この人が、子供たちの言う『にいちゃん』……)
青年――アルは、クラウスの馬を一瞥すると、「……分かった。少し待っていてくれ」と短く答え、手際よく作業を始めた。
クラウスはその背中を、何気ないふうを装って眺めながら、決定的な証拠を探す。
そして、見つけた。
アルが熱い鉄を素手で触らぬよう首から下げていた、古びた革袋。その表面に、長年の使用でほとんど消えかかってはいるが、微かに見覚えのある紋様が刻印されている。
三本の剣を、王冠が束ねる意匠。
――アルカディア王家、それも王族直系の者だけが持つことを許される紋章。
次に、クラウスは森の奥にあるという庵を、木々の間から遠巻きに監視した。
そこにいたのは、子供たちの言う通り、眼鏡をかけた聡明そうな若い女性。
彼女はただ静かに本を読んでいるだけだが、その背筋の伸びた佇まいには、そこらの学者とは明らかに違う、王宮の中枢にいた者だけが放つ独特の空気があった。
クラウスは辛抱強く、息を潜めて数時間、監視を続けた。
そして夕刻。庵の見張りの兵士が交代する、ほんのわずかな隙を突いて、一人の老婆が彼女の元を訪れた。老婆は彼女に深々と頭を下げ、一枚の羊皮紙を手渡す。グランと呼ばれた女性はそれに何かを書き込み、老婆に返した。
(……処方箋か? いや、違う。……あの羊皮紙の折り方は、王宮内で機密文書をやり取りする際の古い作法だ……)
ライナーから叩き込まれた王国の知識が、クラウスの頭の中で全てのピースを繋ぎ合わせた。
全てを、理解した。
ライナー様の「心残り」は、現実だった。
そしてそれは、単なる感傷ではない。この国を救うための、最後の、そして唯一の希望の光なのだと。
彼は急いで街の拠点に戻ると、震える手でこれまでの調査結果の全てを詳細な報告書としてまとめ始めた。
インクが、羊皮紙の上を滑るように走る。
「――第三王子アルフォンス、及ビ元王宮賢者グランヲ発見。王家ノ紋章、王宮内文書形式ノ使用ヲ確認。両名、民衆ノ信望極メテ厚シ。彼ラコソ王国再生ノ唯一ノ鍵トナル可能性、大ナリ。……ライナー隊長。貴殿ノ心残リ、シカト見届ケマシタ」
この報告書が、帝国の小さな軍師の元へ届けられる時。
黄昏の王国に新たな夜明けをもたらすための壮大な物語が、ついにその本当の幕を開ける。
クラウスはペンを置くと、窓の外に広がるリューンの夜景をじっと見つめた。
主君から託された最初の任務は、見事に果たされたのだ。