第6話:『座興の軍師と司令官の悪戯』
じめついた土と男たちの汗の匂いが、野営地の空気に混じり合っていた。昨夜までの雨でぬかるんだ地面に、兵士たちのブーツが重々しい跡を刻んでいく。空はまだ高く、白っぽい陽光が雲の切れ間から地上を照らしている。
私の初仕事は、その喧騒の中心に立つ司令官閣下の天幕で始まる。
「副隊長以上は全員、第一天幕に集合!」
陣地を駆け巡る伝令の張り詰めた声が、嫌でも耳に届く。いよいよだ。私が解読した情報が、本物の作戦として動き出す。期待と不安が入り混じり、心臓が胸を激しく叩いていた。
天幕へ向かおうと一歩踏み出した、その時。
不意に目の前に影が落ち、壁のような巨体が私の行く手を阻んだ。見上げれば、グレイグ司令官が大きな手で私の肩を音もなく掴んでいる。
「待て、リナ」
「は、はい、閣下」
「これからの作戦会議、お前からも説明させようと思う。情報の出所として、直接話させた方が早い」
私を値踏みするように見下ろす、その瞳の奥。悪戯を企む獣のように、ギラリと光ったのを私は見逃さなかった。
(……何か、企んでるな?)
彼の思考は、どうやら私の想像の斜め上をいっていたらしい。
(さて、どうするか。この小娘をそのまま会議に出せば、歴戦の隊長どもは間違いなく侮る。子供の戯言だと、聞く耳を持たん奴も出るだろう。だが、情報が本物ならこれは千載一遇の好機だ。連中に真剣に聞かせるには、何か一捻り必要だな……)
グレイグは、自らの悪巧みに口の端を吊り上げた。
(そうだ。『軍師』に仕立て上げるか。古来より、軍師とは将軍に侍る特別な存在。ハッタリにはもってこいだ。どうせ負け続きで腐っている連中だ、ここで派手な余興をぶち込んでやるのも悪くない。もしこいつが本物なら、この茶番でその存在を刻み込める。もしハズレでも、まあ座興の一つ。淀んだ空気が変わるなら儲けものだ)
完璧な計画に満足したグレイグは、隣に控える怜悧な顔立ちの女性副官、セラに顎をしゃくった。
「セラ。こいつを“それっぽく”しろ。命令だ」
「は……? それっぽく、とは、いかなる意味でしょうか」
普段は氷の仮面を崩さないセラ副官の眉根に、初めて明確な困惑の色が浮かぶ。私も何のことか分からず、二人を交互に見上げるしかなかった。
グレイグは、大仰にため息をついてみせる。
「いいか、リナ。お前は今日から、我が司令部に現れた『謎の軍師』だ。何、ただの役割よ。お前の正体を隠し、言葉に重みを持たせるためのな。敵に素性を知られるのも厄介だ」
彼の言葉には、建前と、ほんの少しの配慮が滲んでいた。
「……軍師、ですか」
「そうだ。異論は認めん。返事は『はっ』だ、書記官殿」
「はっ!」
グレイグは満足そうに頷くと、天幕の隅に置かれた木製の車椅子を、その無骨な指で示した。
「立つと小さいのがバレる。会議中は常にこれに座っていろ。足が悪いフリをしろ。声も、その甲高い声では威厳がない。できるだけ低く、尊大に振る舞え。いいな、これも命令だ!」
「え、えええええ!?」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。謎の軍師? 車椅子?
(無理無理無理! ただでさえ緊張してるのに、そんな大根役者みたいなことできるわけないじゃない! ていうか、足、普通に動きますけど!?)
私の内心の絶叫をよそに、話は冷酷に進んでいく。
「セラ、こいつの変装を手伝え。会議中は後ろから車椅子を押すのだ」
「なっ……! なぜ私が、このような子供の茶番の世話を……!」
セラ副官が、感情を露わにして抗議する。その気持ち、痛いほど分かります。
だが、グレイグはニヤリと笑って一蹴した。
「お前が一番、こういう小細工が得意だろうが。それに、これは茶番ではない。俺の『作戦』だ。逆らうか?」
彼の声のトーンが、ふっと低くなる。
「……っ! 承知、いたしました」
セラ副官は悔しそうに唇を噛み締め、深く頭を下げた。
かくして、私の「謎の軍師化計画」は始まった。
セラ副官は深いため息をつきながらも、その仕事は完璧だった。彼女はどこからか、顔の半分を覆う深いフードのついたローブと、声色を低く響かせるための小さな金属の変声器を手際よく用意する。
それだけではなかった。
「……少し窮屈だが、我慢しろ」
彼女はそう呟くと、車椅子の座面に厚手の毛布を何枚も重ね、その上に膝をつくように私を座らせた。座面を底上げし、大人の上半身とほぼ同じ高さに私の視線が来るように調整してくれたのだ。さらに、私の小さな手を隠すように、指先まで覆う滑らかな黒革の手袋がはめさせられる。
「これでいい……」
準備が整い、私は車椅子に膝立ちの状態で固定された。フードを目深にかぶり、ローブで全身を覆うと、確かにただの小柄な子供には見えない。むしろ、かなり怪しい。
「よし。行くぞ、軍師殿」
グレイグが、面白くてたまらないという顔で笑う。
セラ副官が無言で私の車椅子の後ろに立ち、ゆっくりとそれを押し始めた。ギシリ、と車輪が軋む音が、私の心臓の音と重なる。
第一天幕の中は、むっとするような熱気と、男たちの汗と鉄の匂いで満ちていた。
そのざわめきの中心へ、フードの人物が、女性副官に車椅子を押されて入っていく。当然、全ての会話が止まり、幾十もの無遠慮な視線が突き刺さった。
「静まれ!」
グレイグの一喝が、天幕の空気を震わせる。
「今日から我々の作戦に加わる、助言者殿だ。事情により、名も顔も明かせん。だが、その頭脳は俺が保証する。異論は認めん!」
彼の宣言に、隊長たちは訝しげな顔をしながらも、黙って引き下がる。
「さて、助言者殿。改めて聞かせてもらおうか。解読したという、敵の作戦内容は?」
グレイグが、芝居がかった口調で私に尋ねた。
(ここでしくじったら、ただの道化だ……!)
私は喉に当てた変声器を意識し、できるだけ落ち着いて、低く、尊大な声を絞り出す。
「……うむ。我が分析によれば、敵は南の川沿いで偽の退却を行い、我らを誘い込む。ただ、それだけのことよ」
くぐもった、年齢不詳の声が響く。
「なんと……!」
隊長の一人が息を飲むのが聞こえた。思った以上に効果は絶大らしい。怪しさ満点の見た目と偉そうな口調が、逆に彼らの想像力を掻き立てている。
(ほう、やるじゃないか。度胸は据わっている)
グレイグは内心で舌を巻きながら、さらに続けた。
「では、その退却ルートと、敵の本隊が潜む場所は?」
台本にはない質問。ただの暗号解読係なら、答えられるはずがない。
だが、私は前世の軍事史の知識を総動員し、そして何より、この能力がもたらす地図からの直感を信じた。敵の言葉で書かれた地名や地形の持つ意味合いが、頭の中に流れ込んでくるのだ。
膝立ちのおかげで、机の巨大な作戦地図はちょうど私の目線の高さにあった。私はおずおずと、黒い手袋に覆われた手を伸ばし、細い指先で地図上の一点を指し示す。
「偽の退却部隊は、この街道を通る。だが、これは罠。補給が困難なこのルートを選ぶはずがない。真に警戒すべきは……この丘だ。森に隠れ、街道を見下ろせる絶好の伏兵地点。敵の本隊は、ここにいる」
私の言葉に、天幕がどよめいた。
「何故そう断言できるのですか、助言者殿!」
(おいおい、そこまで言い切るか、このチビは……)
グレイグの額に、冷たい汗が一筋流れた。座興のつもりが、目の前の「軍師」は、確信を持って敵の本隊の位置まで指摘している。
(……もし、もし本当なら……)
彼の心臓が、ドクンと大きく脈打った。
剣幕に押され、私は思わず「ひっ」と小さな悲鳴を漏らしそうになる。
その瞬間、私の背後にいたセラ副官が、すっと前に出て彼らを制した。
「助言者殿は、お疲れだ。質問は、まとめて司令官閣下へ」
凛とした声に、隊長たちはたじろぐ。
グレイグは呆然と眺めていたが、やがて腹を括ったように吠えた。
「……面白い。面白いじゃねぇか!」
彼はそう叫ぶと、地図の上に駒を叩きつける。
「助言者殿の“神託”通りに作戦を立てる! 敵の罠を逆用し、この丘に潜む本隊を、逆に我らが奇襲する!」
(とんでもない博打になっちまったな)
グレイグは内心で呟いたが、その顔には久しぶりに、血湧き肉躍る獰猛な笑みが浮かんでいた。司令官の座興から始まった「謎の軍師」は、本人たちの意図を超え、本当に戦局を左右する存在へと祭り上げられてしまったのだ。
こうして、年齢不詳、性別不詳、そして足が悪い(という設定の)謎の軍師が、東部戦線に誕生した。
時々、意表を突かれて「にゃっ」と変な声が出そうになるのは、どうか見逃してほしい。
私の心臓に悪い軍議デビューは、こうして幕を開けた。