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第55話:『リューンの光と影』


アルカディア王国の商業都市リューン。

それはまるで、病んだ巨人の体にできた唯一熱を帯びた、毒々しい腫瘍のような街だった。

国境で見てきた、あの死んだような村々の静寂が嘘のように、大通りは人と物、そして剥き出しの欲望がごちゃ混ぜになって渦を巻いている。


行商人に扮したクラウスは、荷馬車を安宿の馬小屋に預けると、まずこの街の空気を全身で吸い込むように、ゆっくりと市場を歩き始めた。

鼻をつく色とりどりの香辛料の匂い。耳に張り付く威勢のいい客引きの声。肌をかすめていく人々の熱気。

一見すれば、戦争の影など微塵もない。活気という名の熱に浮かされた日常が、そこにはあった。


だが、クラウスの訓練された目は、その熱の奥に巣食う深い“歪み”を見逃さない。


(……物価が異常だ)


パン一斤が、記憶にある値の三倍近くに跳ね上がっている。そのすぐ隣で、痩せた農村から買い叩かれてきたのだろう、萎びた野菜が二束三文で打ち捨てられるように積まれていた。

富は、目に見える形で偏り、一方通行に吸い上げられている。

そして、その流れのど真ん中に、奴らがいた。


「――おい、そこの婆さん。今日の“上納金”はまだか?」


市場の入り口で、二人の衛兵が露店を営む老婆を威圧していた。

その胸当てには、領主の紋章と共に、もう一つ。三枚の金貨を帆に見立てた天秤の紋章が、誇らしげに鈍く光る。

中立商業国家『ヴェネツィア連合』、その大手商会の証だ。


「ま、待ってくださいまし……。今日はまだ、これっぽっちしか……」

老婆が震える手で差し出した数枚の銅貨を、衛兵の一人がひったくる。

「はっ、足りるかよ、こんなもんで!」

舌打ちと共に、店先の籠から瑞々しいリンゴを二つ、無造作に掴み取った。

周囲の商人たちは、皆、俯いている。商品を並べる手に集中するふりをし、聞こえないふりをし、見ていないふりをしている。逆らえば、明日は我が身だと知っているからだ。


(……なるほどな。ライナー様の懸念通りか)


クラウスは静かに視線を逸らし、雑踏に紛れる。

腐敗した領主とヴェネツィア商人が結託し、民から血肉を吸い上げる巨大な牧場。それがこの街の正体だ。

報告すべき内容を頭の中で組み立てながら、彼は情報収集の拠点と定めた場所へ足を向けた。街で一番、口の軽い連中が集まる薄汚れた酒場へ。


◇◆◇


酒場『雄牛の尻尾』の扉を開けると、安いエールと汗、そして人々の不満が発酵したような酸っぱい空気がむわりと襲いかかってきた。

クラウスはカウンターの隅に腰を下ろし、擦り切れた行商人の服には不釣り合いな、一番高い酒を一杯注文する。そして、隣で飲んでいた日雇い労働者風の男たちの空の杯を顎で示し、気前よく奢ってやった。


「へっへ、兄ちゃん、気前がいいねぇ。どっから来たんだ?」

「西の方から珍しい織物を仕入れてきましてね。ですがどうにも、この街は商売がやりにくい」

わざとらしく溜め息をつけば、男たちは待ってましたとばかりに食いついてきた。


「たりめぇよ。この街はヴェネツィアの連中の庭みてぇなもんだ」

「税金は高い、衛兵は商会の犬。やってらんねぇぜ、まったく」


酒が回るにつれ、人々の口は驚くほど軽くなる。

堰を切ったように、澱んだ不満が次から次へと溢れ出した。


「そもそも、お上は一体何をしてるんだか」

「『剣聖』様も、帝国の『軍師』様には手も足も出なかったらしいじゃねぇか。泥まみれにされたって噂だぜ」

「『聖女』様もそうだ。俺の婆さんが死にかけた時、祈りをお願いしに行ったんだがな、『貴族様の治癒で手一杯だ』って門前払いさ。ちくしょうが……!」


英雄たちへの熱狂は、今や冷え切った失望と嘲笑に変わっていた。

誰も国を信じていない。誰も英雄を信じていない。

クラウスは黙って男たちの愚痴に相槌を打ち続ける。その心の奥底に、かつての祖国への深い哀れみが、冷たい澱のように沈んでいくのを感じながら。


やがて酒も進み、話題は王家の後継者に関する噂話へと移る。

「第一王子殿下は、最近ますます贅沢三昧らしいな。王都じゃ毎晩のように宴を開いてるとか」

「結局、あの方も腐った貴族と同じさ。この国はもうおしまいだよ」

諦めが、テーブルの上に重くのしかかった。


その時、隅で黙っていた年老いた男が、ぽつりと呟いた。

「……いや。まだ、お一方いらっしゃる……」

「ん? なんだい爺さん」

「……第三王子の、アルフォンス様だ。……昔、この街をお忍びで訪れられたことがある。とても賢く、民を思う優しいお方だった……」

「ああ、いたな、そんな方も。宮廷が嫌で飛び出したって話だが……」

「あの方が王になってくれりゃあ、この国も少しはマシになるだろうがなぁ。……まあ、夢物語だがな」


男たちは自嘲気味に笑い、残ったエールを呷った。

クラウスは、その会話を一言も聞き漏らすまいと、ただ静かに耳を澄ませていた。

第三王子、アルフォンス。

そして、この街に彼がいたという事実。

ライナー様が託した「心残り」という言葉が、確かな輪郭を持って胸に宿る。


クラウスは多めの銅貨をカウンターに滑らせ、音もなく席を立った。

今宵、報告すべき確かな光が手に入った。


宿へ戻る道すがら、夜空を見上げる。星は見えない。リューンの街の虚ろな灯りが、分厚い雲をぼんやりと照らしているだけだ。

この黄昏に沈む王国に、夜明けは来るのか。

その鍵を、自分たちが見つけ出す。

クラウスは外套の襟を立て、再び人々の雑踏へとその姿を消した。


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