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第54話:『蜘蛛の糸と潜入指令』


【プロローグ:王国商業都市リューン、路地裏の灯火】


夜の帳が下りたアルカディア王国の商業都市リューンは、二つの顔を持つ。


表通りは、まだ宵の口の熱気を引きずっていた。酒場から漏れる喧騒と笑い声、石畳をまだらに照らすカンテラの橙色の光。だが一歩、建物の影が獣のようにうずくまる路地裏へ足を踏み入れれば、そこは月光さえ拒む濃密な闇と、澱んだ水の匂いが支配する別世界だった。


その路地裏のさらに奥。古びた鍛冶工房の裏口に、二つの人影が揺らいでいた。


「――アル。また無茶をしたそうね」


呆れたような、それでいて隠しきれない心配を滲ませた声。眼鏡の奥の瞳が鋭く光る。聡明な顔立ちの若い女性――グランは、薬草の入った籠を抱え、目の前の青年に深いため息をついた。

彼女の前に立つのは、鍛冶仕事の煤で汚れたたくましい青年――アル。


「……グランか。見て見ぬふりは、できなかった」

ぶっきらぼうな声。だが、その真っ直ぐな瞳は少しも揺るがない。

「あの悪徳商会が、また孤児院の食料を買い占めていた。子供たちが腹を空かせて泣いているのに、俺が黙っていられると思うか」


「気持ちは痛いほど分かるわ。分かる、けど……」

グランは籠から手際よく傷薬の壺と清潔な布を取り出す。アルが騒動の際に隠していた腕の切り傷を見つけると、有無を言わさず薬を塗り込んだ。

「……っつ」

「自業自得よ」

咎める口調とは裏腹に、その手つきはどこまでも優しい。


「あなたは、ただのお人好しの鍛冶屋見習いではないの。もし正体が知られたら……あなただけでなく、私たちを匿うこの街の全てが危険に晒される」

「……分かっている」

アルは、やり場のない怒りに拳を強く、強く握りしめた。爪が掌に食い込む。

「だがグラン、俺はもう待っているだけなのはごめんだ! 父上が、兄上が、あの腐った貴族どもが国を喰い潰していくのを、指をくわえて見ているだけなのは……!」


魂を絞り出すような叫びに、グランは言葉を失う。

彼女は黙ってアルの腕に丁寧に包帯を巻き終えると、夜空を仰いだ。まるで、自分自身に言い聞かせるように。


「……今は、まだその時ではありません」

その声は、冷たい夜気に溶けて消えた。

「でも、必ず時は来ます。私たちが再び光の下へと剣を掲げる時が。……それまでです、アル。それまでは、どうか生き延びて」


忘れられた王子と、囚われの賢者。

二人はまだ知らない。

自らの運命を、そしてこの国の未来を大きく揺るがす小さな足音が、すぐそこまで静かに、しかし確実に迫っていることを。


◇◆◇


【本編:帝国領内・『影の部隊』拠点】


帝国領、北の山脈地帯。

夜の帳が下りた訓練場に、ライナー・ミルザは月光を浴びて静かに佇んでいた。

彼の前には、選抜された十数名の部下たちが石像のように整列している。呼吸の音さえ聞こえない。リナが考案した地獄の訓練を乗り越えた彼らは、もはやただの兵士ではない。影に生き、影に死ぬ覚悟を決めた、諜報の専門家へと変貌していた。


「――これより、最終訓練の成果を実戦にて確認する」


ライナーの低く、しかしよく通る声が、張り詰めた静寂を切り裂いた。

「目標、アルカディア王国。貴様らにはかの国へ潜入し、王国の中枢を蝕む全ての“病巣”を白日の下に晒してもらう」


彼は部下の一人――クラウスに、分厚い羊皮紙の束を手渡した。

「いいか、クラウス。最初の潜入先は商業都市リューンだ。任務は二つ。一つは“目”となり、“耳”となること。民は何を語り、何を憂いているのか。貴族や役人はどう動いているのか。全ての情報を正確に、そして迅速に報告せよ」

その言葉には、上官としての命令以上の重みがこもる。

「……これは、軍師殿が描く未来の絵図を完成させるための一手だ。決してしくじるな」


クラウスは力強く応えると、羊皮紙の次ページをめくった。そこに記された第二の任務に、思わず息を呑む。

『情報心理戦術“蜘蛛の巣”の実行』


「――そして、第二の任務」

ライナーの声が、わずかに温度を下げた。

「そこに記された三つの『噂』を王国全土に張り巡らせろ。我々が糸を引いていると決して悟られるな。あくまで民衆から自然発生した憶測であるかのように見せかけるのだ。……軍師殿の真の恐ろしさは、戦場ではなく人の心の中にあることを、ゆめゆめ忘れるな」

羊皮紙に記された『偽りの英雄譚』『聖女の囁き』『ヴェネツィアの疑念』。そのあまりに狡猾な計略の数々に、クラウスは背筋に冷たいものが走るのを感じながらも、「はっ!」と力強く応えた。


「……最後に、クラウス」

ライナーは声を潜める。

「これは公式の任務ではない。俺個人の頼みだ」

彼は、祖国から命からがら逃れたあの夜を語り始めた。リューンの裏道を駆け抜けた時、偶然耳にした二人の子供のひそひそ話。

「……『森のお姉ちゃん』、『強くて優しいにいちゃん』……。聞き間違いかもしれん。ただの偶然かもしれん。だが、もし万が一……」

ライナーの目に、痛切な色が浮かぶ。

「もし彼らが、まだあの街で息を潜めて生きているのなら……確かめてきてほしい。それが、俺が祖国に残してきた、最後の心残りだ」

クラウスは、主君の痛切な願いをその胸に深く刻み込んだ。


数日後。

埃っぽい外套をまとった口のうまい行商人に扮したクラウスは、アルカディア王国の国境を何事もなく越えた。

そこは、彼のかつての祖国。

だが、国境の村々は魂を抜かれたように静まり返っていた。畑は荒れ、若者の姿はなく、すれ違う人々の目は虚ろで、明日への光を失っている。

変わり果てた故郷の姿に、クラウスは静かな怒りと深い悲しみを覚えながら、馬車を東へ走らせた。


目指すは、リューン。

腐敗と絶望、そしてまだ誰も知らない小さな希望が眠る街へ。

帝国の『天翼の軍師』が描く壮大な物語の新たな一ページが、今、静かにめくられようとしていた。


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