第52話:『北壁の右腕と模擬戦』
ヴォルフラムの魂からの絶叫が、まだ客間に響いているようだった。彼女は私の正体を知った衝撃からいまだに立ち直れず、ソファの隅で頭を抱え「ありえない……」などと呟き続けている。その様子を、シュタイナー中将は愉快でたまらないといった顔で眺めていた。
「……中将閣下」
見かねたグレイグが口を開いた。
「彼女を本当に天翼殿の副官に? 少し、その……少々、頑なすぎるようにお見受けしますが」
グレイグの遠慮のない言葉に、シュタイナーはふんと鼻を鳴らす。
「ヴォルフラムはたいそう腕が立つ。特に剣の腕前は、我が北部方面軍でも随一だ」
「ほう?」
グレイグの目に興味の光が宿る。
「わしほどではないがな」とシュタイナーは付け加えた。「だが最近では、油断するとこのわしでさえ一本取られかねんほどに成長しておる」
「――それほど、ですか」
グレイグの軍人としての血が騒ぎ始めたようだ。彼は立ち上がると、まだ混乱の淵にいるヴォルフラムに声をかけた。
「ヴォルフラム殿」
「……は、はい! なんでしょうか!」
「少し付き合ってもらおうか。中庭で軽く一本」
「え?」
「貴殿の腕前、このグレイグ・フォン・ヴァルハイトが直々に見定めてやろう」
その言葉は、もはや拒否を許さない響きを持っていた。ヴォルフラムは戸惑いながらも、軍人としての本能が上官からの「挑戦」を理解したのだろう。彼女の目に、ようやくいつもの鋭い光が戻ってくる。
「……はっ。お相手、お受けいたします」
◇◆◇
館の中庭。
私とセラ、そしてシュタイナー中将が見守る中、グレイグとヴォルフラムは木剣を手に静かに対峙していた。
グレイグは上着を脱ぎ、鍛え上げられた肉体を惜しげもなく晒している。普段のだらしなさは鳴りを潜め、その構えは歴戦の猛者ならではの凄みを帯び、一切の隙がない。対するヴォルフラムもまた、迷いのない美しい剣の構えを見せていた。まるで教科書から抜け出してきたかのような、完璧な型だ。
「――始め!」
シュタイナーの合図が空気を引き裂いた瞬間、両者の間に張り詰めていた糸が弾け飛んだ。先に動いたのはグレイグ。大地を強く踏みしめ、獣が獲物に飛びかかるような獰猛さで間合いを詰める。
ガッ!と、骨まで響くような重い音が鳴り響いた。
グレイグの嵐のような一撃を、ヴォルフラムは盾のように構えた剣で真正面から受け止めていた。体格差があるにもかかわらず、彼女は一歩も引かない。
「ほう……!」
感嘆の声を漏らしたグレイグが、即座に第二、第三の斬撃を繰り出す。大振りで荒々しい、予測不能な軌道の剣。だがヴォルフラムは、それを冷静沈着に見極め、手首のしなやかな返しだけでことごとく受け流していく。激流を巧みにいなす岩のように、彼女の剣は一切の無駄なく、敵の力を殺いでいく。
「はっ!」
ヴォルフラムが反撃に転じる。水が流れるように滑らかな踏み込みから放たれたのは、喉元を狙う剃刀のごとき鋭い突き。それをグレイグは、獣的な勘で半身になってかわす。剣先が頬を掠め、ピリリとした痛みが走ったかのような鋭い気配。
休む間もなく、今度はグレイグの胴を薙ぐ横殴りの一閃。ヴォルフラムは最小限の動きで身を屈め、紙一重でそれを回避。そのまま流れるような動作で体勢を立て直し、再び剣を構える。
一進一退。一方が仕掛ければ、もう一方がそれを凌ぎ、カウンターを返す。それはもはや訓練ではなく、命のやり取りを凝縮したかのような真剣勝負だった。木剣が打ち合う乾いた音、風を切る鋭い音、二人の荒い息遣いだけが、中庭に響き渡る。
(……すごい)
私はその光景に息を呑んでいた。速すぎて、目で追うのがやっとだ。木剣だというのに、一撃の重さがここまで伝わってくる。あれが本物の刃であれば、庭はとうに血で染まっていたに違いない。
隣のセラも、固唾を飲んで二人を見つめている。
「グレイグ閣下と互角に渡り合うとは……。シュタイナー中将のお言葉に偽りはありませんでしたね」
十数合は打ち合っただろうか。激しい応酬の末、グレイグが大きく後ろへ跳び退き、木剣の切っ先を下げた。
「……そこまでだ」
彼の額には玉の汗が滲み、呼吸も弾んでいる。
「……ふぅ。いかんな。最近は書類仕事ばかりで、身体が鈍っておる。少し鍛え直さんと……」
グレイグが苦笑しながらそう言った時、シュタイナー中将が楽しそうに茶々を入れた。
「いやいやグレイグ、貴様の腕が鈍ったのではない。このヴォルフラムが少々おかしいだけだ」
「なっ! 閣下! それはどういう意味でありますか!」
ヴォルフラムが真っ赤になって抗議する。
だが、その実力はここにいる誰もが認めるところだった。
グレイグはヴォルフラムに歩み寄ると、その肩をぽんと叩いた。
「見事な腕だ、ヴォルフラム殿。貴殿が天翼殿の護衛についてくれるのなら、俺も安心できる」
その素直な賞賛の言葉に、ヴォルフラムは戸惑いながらも、誇らしげに胸を張った。
こうして私の二人目の副官は、その卓越した剣技をもって、まずは帝国軍最強の男の一人に存在を認めさせた。
彼女が私のことも同じように認めてくれる日は、来るのだろうか。私は、その少し不器用で真面目すぎる新たな仲間の横顔を、じっと見つめていた。