第51話:『石頭の副官と軍師の素顔』
午後の陽光が、埃を金色にきらめかせながら館のホールに長く伸びていた。
約束の時刻きっかり。重厚な扉が軋み、グレイグ中将の前にシュタイナー中将が姿を現した。その背後には、まるで彫像のように微動だにしない女性軍人が影のように付き従っている。冷たい大理石の床に、三人の靴音だけが硬質に響いた。
「ようこそ、中将閣下。重要な話になるとお見受けしましたので、『囁きの間』を。この館で最も機密保持に優れた部屋です」
グレイグが背筋を伸ばし、奥へと手で示す。
案内されたのは、館の最も深い場所にある一室。重々しい扉が背後で閉まると、外の喧騒が嘘のように遠のき、しんと静まり返った。壁には音を吸う特殊な鉱石が練り込まれているという。部屋の空気は濃く、そして重い。
部屋の中央で待っていた私を見て、シュタイナー中将は早速、傍らの女性軍人の背を無遠慮にぐいと押し、私の前に立たせた。彼の口の端が、時折ひくりと吊り上がる。これから起こるであろう喜劇を想像し、必死に笑いを噛み殺している顔だ。
「この者はヴォルフラム。長年、俺の副官を務めてきた右腕だ。今日からセラ殿と共に、貴様の副官となる」
「お待ちください、中将閣下!」
ヴォルフラムと呼ばれた女性の、凛と澄んだ声が静寂を鋭く切り裂いた。
「ご命令とあれば、いかなる任務も拝命いたします。ですが、何故私が閣下の元を離れ、このような……」
言葉を切り、彼女の視線がフードを目深にかぶった私を射抜く。それは鞘から抜き放たれた剣のように冷たく、理解不能な存在への剥き出しの敵意が、その瞳の奥で燃えていた。
「――失礼ながら、素性も知れぬ怪しげな者の副官に、ならねばならないのですか!」
(……まあ、そうなるわよね)
フードの奥で、私は静かに息を吐く。当然の反応だ。
「ヴォルフラム。答えを出すのは、見てからにしろ」
シュタイナー中将が、諭すように言った。
「いつまでも顔を隠したままでは、信頼関係など築けまい。……天翼殿、良いな?」
「……御意に」
観念してフードの縁に指をかける。だが、それを中将が鷹揚な仕草で制した。
「まあ待て」
シュタイナーはヴォルフラムに厳かに向き直る。
「ただし、ヴォルフラム。お前がこれから目にするものは、帝国の最高機密だ。貴様がこの者の副官になろうとなるまいと、ここで知ることは墓場まで持っていけ。良いな?」
「……軍人として、当然のこと。ですが、いくら『天翼の軍師』様とはいえ……!」
なおも食い下がるヴォルフラムに、シュタイナー中将はふと、全く無関係な問いを投げかけた。その声には、奇妙なほど温かい響きがあった。
「そういえばヴォルフラム。お前、戦災孤児の支援に熱心だったな。子供をたいそう可愛がっていたと記憶しているが」
「っ! そ、それは……任務とは関係ありません!」
ヴォルフラムの白い頬が、さっと朱に染まる。
「……ですが、事実です。子供たちに罪はありません。全ての子が、安全な場所で健やかに育つべきです。その手伝いが少しでもできるのであれば、と……」
その真摯な言葉に、フードの奥で彼女への印象がわずかに色を変えた。
「そうか、そうか。ならばやはり、これは最適な人事だと俺は思うのだがな」
「ですから! 何故そうなるのでありますか!」
話が全く見えないヴォルフラムが、声を荒らげた、その時。
私は、ゆっくりとフードを脱いだ。
変声機も外し、本来の姿をさらす。
「――はじめまして、ヴォルフラムさん。私が、リナです。これから、よろしくお願いしますね」
にっこりと、私はありったけの愛想を込めた笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。
しん……。
時間が凍りついたかのような静寂が、部屋を支配した。暖炉の薪がぱちり、とはぜる音だけが、やけに大きく響く。
ヴォルフラムは、目の前の光景が信じられないとでもいうように、大きな瞳を数度、またたかせた。焦点の合わない視線が、私の幼い顔と、隣で静かに微笑むセラの顔、そして肩を震わせて笑いを堪える中将の顔を、壊れた人形のように何度も往復する。
「……え……? あ……? こ、ども……?」
か細い声が、彼女の唇からこぼれ落ちた。
「……えっと……その……」
常に冷静沈着であったはずの彼女の怜悧な頭脳が、完全に機能を停止しているのが見て取れた。
「……天翼殿」
耐えきれなくなったシュタイナー中将が、震える声で言った。
「この者は少々、頑ななところもあるが、根は良い奴だ。信用もできる。……よろしく頼む」
「はい。こちらこそ」
「――私は、まだ認めておりませんが!」
ようやく再起動した彼女の思考が、悲鳴という形で出力された。
「こ、こんな……! こんな小さな、可愛らしい……いえ、そうではなく! このような、守られるべきか弱い少女が『天翼の軍師』などと! い、一体この国はどうなってしまっているのですかッ!!」
彼女の魂からの絶叫が、防音壁に守られた部屋の中で虚しくこだまする。
隣の控え室で待機していたグレイグ中将は、扉の隙間から漏れ聞こえる声に、その主を想像して「……やれやれ」と天を仰ぎ、深いため息をついた。
こうして私の二人目の副官は、その忠誠を誓うよりも先に、まず帝国の未来を本気で憂うことになった。
彼女の硬質な横顔に信頼の色が宿るまでには、まだもう少し、時間が必要なようだった。