第50話:『北壁の誓約と二人目の副官』
交渉成立――。
フードの奥で、そっと拳を握りしめた、その時だった。
張り詰めていた部屋の空気を、鋭い刃が引き裂く。シュタイナー中将の目が、ギラリと猛禽のように光った。
「――ただし、条件が二つある」
地を這うような低い声。安堵しかけた私の心臓に、冷たい楔が打ち込まれた。
「……と、おっしゃいますと?」
「――一つ! その気色悪い頭巾を、今すぐ脱げ! この“北壁”のシュタイナーを前に、いつまでも素顔を隠し通せると思うなよ!」
有無を言わさぬ、絶対的な命令。
ごくり、と喉が鳴り、言葉が張り付いて出てこない。じわりと滲んだ冷や汗が、背中をゆっくりと伝っていく。この男は、グレイグとは違う。こちらの事情など一切汲まぬ、鋼の意志を持つ男だ。
たまらず、助けを求めるようにグレイグへ視線を送る。
(グレイグさん! 本当に、この人を信用していいのですか!? ここで正体を……?)
私の必死の視線を受け止めたグレイグは、表情を一切変えぬまま、ごくわずかに頷いた。その目が、引き結ばれた口元が、音もなく「覚悟を決めろ」と告げている。
「……シュタイナー中将。失礼ながら、軍師殿の素顔は帝国の最高機密。お付きの方にはご退室を願えますでしょうか」
セラの冷静な声が、凛と響いた。
シュタイナーは一瞬、不快げに眉を寄せたが、やがて「……ふん。下がっていろ」と、背後に控えていた副官に顎をしゃくった。
重厚な扉が閉まり、部屋には私、グレイグ、セラ、そしてシュタイナー中将の四人だけが残される。
……腹を、決めるしかなかった。
震える指を、ゆっくりとフードの縁にかける。心臓の音が、やけに大きく耳の奥で響いた。
一つ、深く息を吸い込み――私はそれを一気に引き下ろした。
ざわり、と空気が揺れる。
布が肩に落ちるかすかな音だけが響く静寂の中、部屋にいる全員の視線が、針のように私の素顔へ突き刺さった。
シュタイナー中将の唇に浮かんでいた獰猛な笑みが、カチン、と音を立てて凍りつく。
鋼鉄のごとき彼の瞳が、ありえないものを見たかのように、限界まで見開かれた。その表情は、数週間前に皇帝陛下が見せたものと寸分違わない。
「……な……」
彼の口から、か細い、空気の漏れるような声がこぼれる。
しばらく化石のように固まっていた彼は、やがて、何かを絞り出すように言った。
「……すまぬ。しばし、休憩を。……グレイグ、貴様は来い」
私から視線を外せないまま、おぼつかない足取りで隣の控えの間へ消えていく。グレイグもやれやれと肩をすくめ、その後に続いた。
重い扉が、無慈悲な音を立てて閉ざされる。
部屋に残されたのは、私とセラ、そして気まずい沈黙だけ。
ふぅ、と長い息を吐くと同時に、全身の力が抜けていく。支えを失ったように、私は椅子へどさりと崩れ落ちた。
テーブルの上、シュタイナーが「いらん」と一蹴した焼き菓子が、甘い香りを放っている。
(あ……。よしっ。今のうちに、いただいてしまおうっ。......いいよね?)
◇◆◇
どれほどの時間が経っただろうか。
再び扉が開かれ、二人が戻ってきた。シュタイナー中将の顔から、先ほどの衝撃の色は消え失せている。そこにあるのは、嵐が過ぎ去った後の静けさにも似た、すべてを受け入れた者の覚悟に満ちた眼差しだった。
彼はまっすぐ私の前に立つ。
「……リナ、と言ったか。北の廃坑、好きに使うがいい。……ただし!」
ビシッ、と人差し指が私に向けられた。
「一つ! 今後、俺の前ではその頭巾は脱げ。俺は、軍師ではなくリナ、貴様と話す」
「……御意に」
「そして、二つ目!」
次に、彼の視線が鋭くセラを射抜く。
「貴様の副官として、俺の腹心を一人送り込む。セラ殿と、同じ立場としてな」
それは監視、そして人質に他ならない。
「貴様らが帝国を裏切る真似をせぬよう、しっかりと見張らせていただく。……異論は、あるまいな?」
「……御意に。中将のお眼鏡にかなう有能な方であれば、大歓迎にございます」
私の返答に、シュタイナー中将は満足げに大きく頷いた。
「ふん。……ならば話は決まりだ。明日、改めてその者と引き合わせる」
そう言い放つと、彼は来た時と同じく、まるで嵐のように部屋から去っていった。