第47話:『英雄と皇子の秘密の約束』
ユリウス皇子の絶叫が、色とりどりの薔薇が咲き乱れる庭園に木霊した。
その声が消えぬうちから、彼の顔は血の気が引いたかと思えば次の瞬間には真っ赤に染まり、まるで壊れた人形のように何度もそれを繰り返す。見かねた侍女長が、慣れた手つきで気付けのハーブティーをその震える口元へと運んでいた。
その喧騒を背に、私と皇妃陛下は何事もなかったかのように、優雅なお茶会を再開していた。カチャリ、とティーカップの触れ合う澄んだ音が響く。
「それでリナ、マキナの工房の移転先はもう決まったのかしら?」
「はい。いくつか候補地を絞りました。中でも、豊富な鉄鉱石が採れる北のシュタイナー中将の管轄区……その古い廃坑が第一候補です。あそこなら機密も保てますし、大規模な開発にも」
「まあ、ゲルト様のところですの。あの方は少々、いえ、かなり石頭で有名ですけれど、陛下からお話を通せばきっと協力してくださるわ」
すぐ隣で繰り広げられる、まるで国家機密のような会話。
ようやくハーブティーで喉を潤し、正気を取り戻したユリウス皇子の耳に、その言葉が飛び込んでくる。
(……シュタイナー中将? 鉄鉱石? ……この僕とたいして歳の変わらない少女が、一体何を……? これが、『天翼の軍師』の日常……?)
彼のこれまでの世界観が、足元からガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
やがて彼は意を決したように、ガタリと音を立てて椅子から立ち上がった。そして私の前に進み出ると、ぎこちない動きで、しかし深く、深く頭を下げた。その影が、テーブルクロスの上に長く伸びる。
「……ぐ、軍師殿! さ、先ほどは大変なご無礼を……! ど、どうか、この首を刎ねるのだけはご容赦いただきたい……!」
その必死な様子に、私は噴き出しそうになるのを懸命にこらえた。口元を隠すようにカップを持ち上げる。
「顔をお上げください、ユリウス皇子。私はあなたの首を刎ねたりなどいたしませんよ」
その言葉に、皇子は恐る恐る顔を上げた。その瞳には、まだ怯えと安堵が入り混じっている。そして憧れの英雄を前に、堰を切ったように質問を浴びせ始めた。
「あ、あの! 本当にあなたが、あの鷲ノ巣盆地で王国軍を……?」
「はい」
「では、『剣聖』を泥まみれにしたというあの奇策も……?」
「まあ、そうなりますね」
「すごい……! 本当にすごい! いったいどうすれば、あなたのような軍師になれるのですか!?」
その瞳は、先程までの怯えが嘘のようにキラキラと輝いている。純粋な尊敬の眼差しに、私の心も少しだけ温かくなった。
「……そうですね。まずはたくさんの本を読むことと、それから……」
当たり障りのない助言をしようとした、その時だった。
パン、と皇妃陛下が軽やかに手を叩いた。その乾いた音が、会話を遮る。
「はい、そこまでよ。リナもそろそろお暇の時間でしょう?」
「え……あ、はい。そうですね」
楽しい時間は、いつもあっという間に過ぎていく。
私は名残惜しさを隠して立ち上がり、帰る支度を始めた。ユリウス皇子は、まだ何か言いたげに私を見つめている。彼の中で私は、もう完全に「憧れの大英雄」として焼き付いてしまったらしい。
そんな私たちを見て、皇妃陛下はとんでもない爆弾をもう一度、投下した。
「それにしても、二人ともずいぶんと打ち解けたようですわね」
彼女は満面の笑みで、まるで甘い菓子でも勧めるように言った。
「ユリウスもあなたのことをとても慕っているようですし……。ねえリナ、改めてこの子と……」
「――セレスティーナ様!」
私は思わず、彼女の言葉を少し強い声で遮っていた。
「ですから、それは……! 身分違いも甚だしいです! それに、私はまだ、自由でいさせてください!」
軍師だの貴族だの、そんな窮屈な肩書きに縛られるのは、もうこりごりなのだ。
私のきっぱりとした拒絶に、皇妃陛下はわざとらしく眉を下げ、悲しそうな顔でユリウス皇子の方を向いた。
「まあユリウス……どうやらフラれてしまったようですわね?」
「…………え?」
ユリウス皇子が、きょとんとした顔で母を見る。
そして次の瞬間、彼の顔が再び茹でダコのように真っ赤に染まった。
「ぼ、ぼ、僕はなぜ、告白もしていないのにフラれたことになっているのですかっ!!」
皇子の魂からの絶叫が、再び薔薇の庭園にこだました。
その光景に、私はもう笑いをこらえることができず、少し離れた場所に立つセラも、静かに肩を震わせている。皇妃陛下だけが、何食わぬ顔で優雅にお茶を啜っていた。
こうしてユリウス皇子は、私という『天翼の軍師』の最も若い「秘密の共有者」となった。
そして彼の心の中に、尊敬と憧れと、そしてほんのちょっぴりの淡い何かが芽生えたことを、まだ誰も知らなかった。




