間話(ユリウス皇子・インナーワールド編):『皇子様の盛大な勘違い』
(な、何が起こっているんだ……!?)
目の前の光景が、まるで出来の悪い芝居のように現実感を失っていく。
母上が催されている、天翼の軍師様が居られると聞いて、急ぎ顔を出したはずの茶会。薫り高い紅茶の湯気が、午後の陽光にきらめいている。
だが、僕の意識はそこにはない。目の前に座る、見知らぬ少女に釘付けだった。
歳は僕より少し下だろうか。陽に透ける亜麻色の髪に、吸い込まれそうなほど大きな栗色の瞳。少し上等なワンピースは彼女によく似合っているが、貴族の令嬢が纏う、あの鼻につく高慢な空気は微塵も感じられない。どちらかといえば、街角の花屋で屈託なく笑っている娘のような、そんな親しみやすい雰囲気を漂わせていた。
だというのに。
母上は、彼女をまるで旧知の親友であるかのように、親しげにもてなしている。
そして、僕に向かって「仲良くしてほしい」などと宣うのだ。
(……ま、まさか!)
脳裏に、いつも令嬢たちが囁き合う、あの言葉が雷鳴のように轟いた。
『婚約』
そうだ、母上は僕に、この娘を未来の妃としてあてがおうとしているに違いない!
(い、いやいや、待て! 確かに、この娘は……その、なんだ……け、結構、可愛い、かもしれないが……。しかし、いきなりすぎる! それに、どこの馬の骨とも分からん娘じゃないか!)
僕が一人、内心で激しい嵐に見舞われていると、その少女が、潤んだ瞳でじっと僕を見つめてきた。テーブルクロスの縁を、小さな指が不安げに弄んでいる。
「……では、ユリウス皇子。これから、一生、お守りいただく、ということで、よろしいのですね?」
(うわああああああああああ! やっぱりそうだ! この娘、完全にその気だ!)
カァッ、と顔に血が上るのがわかった。耳の奥で、自分の心臓がやかましく脈打っている。
ど、どうする。どう答えればいい。
ここで断れば、この潤んだ瞳を曇らせてしまうだろう。だが、安請け合いなどできるはずがない! 僕は、この帝国の次期皇帝なのだぞ!
(で、でも……もし、万が一、この娘と、一生……? ……いや、ダメだ! 僕はもっと、騎士物語に出てくるような気高い姫君と……! ……だが、この娘の、あの少し困ったような上目遣いは……あ、あり……か……? ……い、いやいやいや! 僕は一体、何を考えているんだッ!)
僕の頭の中は、もはや大嵐だ。
そんな僕の葛藤など露知らず、母上は楽しげに追い打ちをかけてくる。その微笑みは、全てを見透かしているようで、恐ろしい。
「あら、そうなのね。それならば、きちんと紹介をしなければ失礼にあたりますわね?」
「お、お、お母様ッ! か、勝手に話を進めないでください! こ、こういうことは、本人同士の、その、気持ちが、一番……!」
僕のしどろもどろの抗議は、春風に舞う花びらのように、母上の前で虚しく霧散した。
そして、運命の瞬間が訪れる。
母上は、優雅に立ち上がると、その少女の肩にそっと手を置いた。
「――この子こそが、そなたが、あれほど会いたがっていた、帝国の英雄。我が国の勝利と平和を導く、気高き翼」
(……英雄? 翼……?)
一体、何の話だ。薔薇の甘い香りが、やけに鼻につく。
「――『天翼の軍師』、リナよ」
「…………え?」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃。
僕の思考が、完全に凍りついた。
『天翼の軍師』?
てんよくの、ぐんし……?
僕が心の底から尊敬し、憧憬の念を抱く、あの伝説の大英雄?
背丈は三メートルはあり、千里眼を持ち、神のごとき智謀で、あの『剣聖』さえも打ち破ったと謳われる、あの……?
僕の青い瞳が、信じられない、というように目の前の少女の上から下までを、何度も、何度も往復する。
目の前で、はにかむように微笑んでいる、自分よりもうんと小さな、華奢な少女。
そして、脳裏に浮かぶのは、帝国を救った神のごとき智謀を持つ、伝説の大軍師の威容。
その二つのイメージが、どうしたって結びつかない。全く、これっぽっちも。
(あ……ありえない……。じゃあ、さっきの「一生、守って」っていうのは……え? 僕が、この、伝説の大英雄を、守る……? 逆だろう! 普通!)
(ていうか、僕は、この帝国で一番の英雄様に向かって、「可愛い」とか「ありかも」とか思っていたのか!? 不敬罪だ! 死ぬ! 絶対に、首を刎ねられる!)
「……え……? ええええええええええええええええええええええええ!?」
やがて、全ての回路が繋がった僕の、絶叫にも似た驚声が、手入れの行き届いた薔薇の庭園に高らかに響き渡った。
さっきまでの甘酸っぱい妄想は、粉々に砕け散って風に消えた。
後に残ったのは、伝説の英雄に対する底なしの畏敬の念と、そして、とんでもない勘違いをしてしまった自分への、死にたいほどの羞恥心だけだった。
僕はもう、彼女の顔を、まともに見ることができなかった。