第5話:『泥濘の女神と司令官閣下』
数日に及ぶ馬車の旅は、私の骨と、そして新調したばかりのワンピースを容赦なく痛めつけた。ガタガタと鳴る車輪の音、跳ねる泥の気配。その終着点は、私が胸に抱いていた淡い期待を、木っ端微塵に打ち砕くには十分すぎる場所だった。
車輪が泥に沈む鈍い音を立て、馬車が止まる。
重々しい扉を、護衛兵士が無言で開け放った。
「……到着した。降りろ」
その無愛想な声に促され、私が泥濘に一歩足を踏み出した瞬間――世界から、色が消えた。
きらびやかな帝都でもなければ、堅牢な石造りの司令部でもない。
目に飛び込んできたのは、見渡す限りの泥、泥、泥。降り続いた雨でぬかるんだ大地に、煤けた天幕が無数に乱立し、まるで巨大な墓標が立ち並んでいるかのようだった。
鼻腔を刺すのは、花の香りなどではない。
土埃と鉄錆、消毒薬、そして胃の腑からせり上がってくるような、微かな血の匂いが混じり合った、淀んだ臭気。
耳に届くのは、鳥のさえずりではない。
男たちの荒々しい怒声と、どこか遠くで地を揺るがす、鈍い振動。
「…………え?」
私の唇から、間の抜けた声がこぼれ落ちた。
頭が真っ白になる。夢見ていたふかふかのベッドはどこ? 温かいお風呂は? 甘いバターケーキは?
目の前にあるのは、ただ、絶望という名の泥の海。
(話が、違う。話が違う話が違う話が違うじゃないですかぁぁぁぁ!)
内なる絶叫は、もちろん声にはならない。あまりの衝撃に、ただ唇がわなわなと震えるだけ。空色だったはずのワンピースの裾は、たった一歩で、すでに汚泥の色に染まっていた。
私を取り囲むのは、屈強で、無骨で、誰も彼もが傷だらけの兵士たち。その目は誰もが疲弊しきって、死んだ魚のように濁っている。そんな男たちが、泥濘の中にぽつんと佇む場違いな少女に気づき、ささくれだった心のはけ口を見つけたかのように、下卑た笑みを浮かべた。
「なんだ、このチビは。お偉いさんのご令嬢が、社会見学にでも来たのか?」
「ままごとの途中だったんじゃねぇか。お嬢ちゃん、人形は持ってきたかい? ここには生きた的がうじゃうじゃいるぜ」
「こんなガキが送り込まれてくるなんざ、いよいよ俺たちも終わりだな。ハッ」
怖い。悔しい。帰りたい。
大きな瞳に、みるみる涙が膜を張る。私が俯いて唇を噛み締めていると、不意に、一番大きな天幕から響いた野太い声が、その場の空気を凍てつかせた。
「貴様ら、新しい同僚にろくな挨拶もできねぇのか。だから万年平兵なんだ、てめぇらは」
その声に、兵士たちはびくりと体を震わせ、蜘蛛の子を散らすように己の持ち場へ戻っていく。
やがて、声の主が天幕からだるそうに姿を現した。
無精髭。着古して皺だらけの軍服は、一番上のボタンさえ留めていない。年は四十代といったところか。その目は猛禽のように鋭いが、口元には人の良さそうな、それでいて全てを小馬鹿にしたような、胡散臭い笑みが浮かんでいる。
この泥と絶望の坩堝の、主。一目でそうわかった。
「よう。お前さんが、中央のクソ狐どもが送り込んできた『切り札』様か」
男は私の頭のてっぺんから泥まみれの靴までをじろりと一瞥し、心底つまらなそうに言った。
「俺はこのクソ溜めの隊長をやってるグレイグだ。……えらい、ちっちぇえのが来たな」
その値踏みするような視線は、まるで私の値打ちを測っているかのようだった。優秀な副官をよこせとあれほど言ったのに、寄越されたのがこれかよ。戦場の“せ”の字も知らんだろう、チンチクリンの小娘とは。あの狸ども、何を企んでやがる……。そんな声が聞こえてきそうだった。
彼の内心など知る由もないが、そのあからさまに小馬鹿にした態度に、恐怖よりも悔しさが込み上げてくる。涙は瞬時に乾き、代わりに頬がカッと熱くなった。
グレイグはそんな私の表情の変化を見透かしたようにニヤリと笑うと、近くの伝令兵から一枚の羊皮紙をひったくる。
「ま、お手並み拝見といこうか。ホラよ。昨日捕まえた斥候が持ってた暗号だ。解読班に回すより、お前さんにやらせた方が早いかもしれん」
ポイ、と。
まるで屑でも捨てるかのように投げられた羊皮紙を、私は慌てて泥水に落ちる寸前で掴み取った。
悔しい。舐められたままで、たまるものか。
私には、三十年分の社会人経験と知識(と地味チート)がある。こんな胡散臭いパワハラ上司、初日でぎゃふんと言わせてやる!
私は滲む視界をぐっとこらえ、羊皮紙に目を落とした。
そこに並ぶのは、一見すると意味不明な文字列の羅列。
だが、私の脳裏で、その文字が瞬時に分解され、再構築されていく。これは……ただの暗号じゃない。王国のある地方で使われる隠語を、さらに北方部族の古語の文法で並べ替えている。二重、三重に仕掛けられた、悪辣な罠だ。
私は一度、大きく息を吸った。
そして、このクソッタレな状況への怒りと、絶対に負けたくないというプライドの全てを、声に乗せた。
「――『三日後、夜明けと共に、南の川沿いの陣から偽の退却を開始。追撃する帝国軍を引き込んだところを、丘の裏手の本隊が側面から包囲殲滅する』……ですっ!」
凛と響いた私の声に、時が止まった。
グレイグの飄々とした顔から、笑みが消える。彼は私の手から羊皮紙をひったくると、そこに書かれた文字列と私の言葉を交互に見比べ、その鋭い目を驚愕に見開いた。
私の荒い呼吸だけが響く。
やがて、グレイグの喉が「ク、クク……」と奇妙な音を立てたかと思うと、彼は腹を抱えて「カカカッ!」と天を仰いで笑い出した。
そして、その大きな手が伸びてきて、私の頭をわしわしと、少し乱暴にかき混ぜる。
「……たいしたもんだ。こりゃあ、本物だ。ようこそ、クソッタレの東部戦線へ、嬢ちゃん」
悪戯っぽく、彼が片目をつむぐ。
その瞳から先程までの侮りは消え失せ、代わりに、面白くてたまらない玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心と期待の光が宿っていた。
「これからよろしく頼むぜ、リナ書記官殿。お前は、この泥沼に舞い降りた、俺たちの『勝利の女神』様かもしれねぇからな」
おだてられ、持ち上げられ、不覚にも、私の心臓がトクンと大きく跳ねた。
こうして、私の最前線での涙と愚痴と、時々ファインプレーに満ちた日々が、最悪で、そして最高の形で幕を開けたのだった。