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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 書記官リナ、8歳です  作者: 輝夜
序章:『勘違いエリートコースの果ては、地獄の最前線でした』
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第5話:『泥濘の女神と司令官閣下』


数日間の馬車の旅は、私の体力と、そして新品のワンピースを容赦なく汚していった。そして、旅の終着点は、私の輝かしい妄想を木っ端微塵に打ち砕くのに、あまりにも十分すぎる場所だった。


馬車が止まり、護衛兵士が重々しく扉を開ける。

「到着した。降りろ」

その声に促され、私が馬車から一歩足を踏み出した瞬間――世界は色を失った。


きらびやかな帝都でも、堅牢な石造りの司令部でもない。

目に飛び込んできたのは、見渡す限りの泥、泥、泥。雨でぬかるんだ大地に、無数の煤汚れた天幕テントが、まるで巨大な墓標のように乱立している。

鼻をついたのは、花の香りではなく、土埃と、鉄と、消毒薬と、そして微かに漂う血の生臭い匂いが混じり合った、不快な臭気。

耳に届いたのは、鳥のさえずりではなく、男たちの荒々しい怒声と、どこか遠くで鳴り響く、地を揺るがすような鈍い爆発音だった。


「…………え?」


私の口から、間の抜けた声が漏れた。

頭が真っ白になる。ふかふかのベッドはどこ? 温かいお風呂は? バターケーキは?

目の前にあるのは、絶望という名の泥の海だけだ。


(話が違う。話が違う話が違う話が違うじゃないですかぁぁぁぁ!)


内心の絶叫は、もちろん声にはならない。あまりの衝撃に、ただ唇がわなわなと震えるだけだ。私の空色のワンピースは、馬車から降りた一歩目で、すでに泥だらけになっていた。


私の周りには、屈強で、無骨で、誰も彼もが傷だらけの兵士たち。彼らは皆、疲弊し、その目は死んだ魚のように濁っている。そんな男たちが、泥濘の中にぽつんと佇む場違いな少女を見て、ささくれだった心のはけ口を見つけたかのように、下品な笑みを浮かべた。

「なんだ、このチビは。中央のお偉いさんの娘が見学にでも来たのか?」

「ままごとの途中だったんじゃねぇのか。お嬢ちゃん、お人形は持ってきたかい? ここには生きた的がたくさんいるぜ」

「こんな子供が来るなんて、いよいよ俺たちも終わりだな。ハッ」


怖い。悔しい。帰りたい。

大きな瞳にみるみる涙が溜まっていく。私がイジイジと俯いていると、不意に、天幕の一つから響いた野太い声が、その場の空気を凍らせた。


「お前ら、新しい同僚に挨拶もできねぇのか。だから万年平兵ひらなんだ、てめぇらは」


その声に、兵士たちはびくりと体を震わせ、蜘蛛の子を散らすように去っていく。

声の主は、天幕からだるそうに姿を現した。

無精髭を生やし、着古した軍服は皺だらけで、一番上のボタンさえ留めていない。年の頃は四十代だろうか。その目は猛禽類のように鋭いが、口元はどこか人の良さそうな、あるいは全てを小馬鹿にしたような、胡散臭い笑みを浮かべていた。

この泥と絶望の坩堝の、主。一目でそう分かった。


「よう。お前さんが、中央のクソ狐どもが送り込んできた『切り札』様か。俺はこのクソ溜めの隊長をやってるグレイグだ。……思ったより、ちっちぇえな」


男――グレイグは、私の頭のてっぺんから泥だらけの靴までをじろりと眺め、心底つまらなそうに言った。

(優秀な副官兼書記官をよこせとあれほど言ったのに、寄越されたのがこれか? 冗談も大概にしろ。よりによって、戦場の“せ”の字も知らんだろうチンチクリンの小娘とは。だが……あの狸親父どもが、ただの子供を政治的な意図もなしに送り込んでくるはずがない。何かある。試してみるしか、ないか)


彼の内心の葛藤など知る由もない私は、その小馬鹿にしたような態度に、恐怖よりも悔しさが込み上げてきた。涙は引っ込み、代わりにムッとした気持ちが湧き上がる。

グレイグはそんな私の表情の変化を見透かしたようにニヤリと笑うと、近くの伝令兵から一枚の羊皮紙をひったくった。

「ま、お手並み拝見といくか。ホラよ、こいつは昨日捕まえた斥候が持ってた暗号だ。解読班に回すより、お前さんにやらせた方が話が早いかもしれん」


ポイ、と無造作に投げられた羊皮紙を、私は慌てて泥水に落ちる寸前でキャッチする。

悔しい。舐められたままでたまるか。私には三十年分の社会人経験と知識(と地味チート)があるんだ。こんな胡散臭いパワハラ上司、初日でぎゃふんと言わせてやる!


私は悔し涙をぐっとこらえ、羊皮紙に目を落とした。そこに書かれていたのは、一見すると意味不明な文字列の羅列。

だが、私の目には、それが王国のある地方で使われる特殊な言い回し(スラング)を、さらに別の言語――北方部族の古語の文法で並べ替えた、二重三重の罠が仕掛けられたものであることが、一瞬で見抜けた。


私は一度、大きく息を吸い込んだ。そして、このクソッタレな状況への怒りと、絶対に負けたくないというプライドを、声に乗せた。

「……『三日後、夜明けと共に、南の川沿いにある我が軍の陣地から、偽の退却を開始。追撃してきた帝国軍本隊を引き込んだところを、丘の裏手に隠した本隊が側面から包囲殲滅する』……ですっ!」


私がそう告げた瞬間、時が止まった。

周りを遠巻きに見ていた兵士たちの嘲笑が消え、グレイグの飄々とした表情から、笑みが消える。彼は私の手から羊皮紙をひったくるように奪うと、そこに書かれた暗号と私の言葉を照らし合わせ、その鋭い目を驚愕に見開いた。


静まり返った天幕村に、私の荒い呼吸だけが響く。

やがて、グレイグは「ク、クク……」と喉を鳴らし、やがて腹を抱えて「カカカッ!」と大声で笑い出した。

そして、その大きな手で、私の頭をわしわしと、少し乱暴に撫で回した。


「……たいしたもんだ。こりゃあ、本物だ。ようこそ、クソッタレの東部戦線へ、嬢ちゃん」


そして、彼は悪戯っぽく片目をつむいでみせた。その瞳には、先程までの侮りは消え、面白くてたまらないオモチャを見つけた子供のような、純粋な好奇心と期待が宿っていた。


「これからよろしく頼むぜ、リナ書記官殿。お前は、この泥沼の戦場に舞い降りた、俺たちの『勝利の女神』様かもしれんからな」


おだてられ、持ち上げられ、私は不覚にも、心臓がドキリと高鳴るのを感じていた。

こうして、私の最前線での涙と愚痴と、時々ファインプレーの日々が、最悪で、そして最高の形で、幕を開けたのだった。


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