第45話:『お茶会の乱入者と母の企み』
「――では陛下。この岩は後日、私の準備が整い次第、指定の場所へお運びいただくということでよろしいでしょうか」
「うむ、構わん。好きにするがよい」
皇帝陛下との謁見を終え、深く一礼する。背後で宝物庫の巨大な扉が閉まるごう、という音と共に、薄暗く埃っぽい空気から解放された。
(精霊語、祈りの言の葉……)
頭の中には、あの黒い岩に刻まれた紋様が焼き付いている。とてつもない謎であり、同時に爆弾のような情報だ。
(……いや、今は深追いする時じゃない)
私は、思考の海から、意識を、現実へと、引き戻した。車椅子の車輪が、滑らかな、大理石の床を転がる、かすかな音に、耳を澄ます。まずは、マキナさんの工房の、移転先を、決めなければ。
私が、思考を切り替え、セラに、宿舎へ戻るよう、目配せをした、まさにその時。
回廊の柱の陰から、すっと、一つの人影が現れた。案の定、というべきか。皇妃陛下の侍女が、完璧な所作で、私たちの前に、恭しく、佇んでいる。
彼女は、まず、私の護衛である、セラに、一礼すると、それから、私の乗る、車椅子の前に、深く、頭を下げた。
「『天翼の軍師』様。皇妃陛下が、お茶の準備をして、お待ちかねでございます」
もはや断るという選択肢は私にはない。無言で頷くと、侍女は静かに踵を返し、私を薔薇の庭園へと導き始めた。
いつものガゼボは、甘い薔薇の香りと午後の柔らかな光に満ちていた。純白のテーブルクロスの上で、銀のティーポットが湯気を立てている。皇妃陛下は、私が『天翼の軍師』のフル装備で現れるのを見ると、楽しそうに目を細めた。
「まあ、今日はその物々しいお姿のままなのね。陛下から何か難しいお話でもあったのかしら?」
「……御意にございます」
変声機を通した尊大な声で答えると、彼女はくすくすと喉を鳴らし、しなやかな手で合図をした。
「ご苦労様。皆、下がってちょうだい。……セラと侍女長だけは残って」
その一言で、周囲に控えていた侍女や護衛たちが音もなくその場を離れていく。
人払いが済んだのを肌で感じ、私は待ってましたとばかりに重々しいローブとフードを脱ぎ捨てた。ばさりと音を立てて椅子に置く。
「はぁ〜……。やっぱり、こっちの方が楽です」
「ふふ、お疲れ様、リナ。さ、こちらの席へ。今日はあなたが好きなチョコレートのミルフィーユを用意させたのよ」
「本当ですか!? ありがとうございます、セレスティーナ様!」
一人の少女リナに戻り、私は皇妃陛下との甘い時間を満喫する。
マキナの工房での爆発騒ぎ。気恥ずかしい称号の数々。そして、新しく始めるプロジェクトのこと。他愛のないおしゃべりが、軽やかな食器の音と共に弾んでいく。皇妃陛下はまるで本当の母親のように、私の話を微笑みながら聞いてくれる。この時間だけが、今の私にとって唯一、心から息がつける場所だった。
だが、その平穏は、一人の予期せぬ闖入者によって打ち破られた。
「――母上! こちらにおられると伺いました!」
砂利を踏む荒々しい足音と共に、息を切らした少年がガゼボに駆け込んできた。第一王子、ユリウス殿下。彼は私の姿を認めた途端、その澄んだ青い瞳を鋭く見開いた。
「……母上。その方は、どなたですか?」
彼の視線は、明らかに私という「見知らぬ少女」に向けられている。警戒の色が隠せない。
対する皇妃陛下は、カップをソーサーにことりと置き、少し困ったように眉を寄せた。
「ユリウス。あなたをここへは呼んでいないはずですけれど?」
「『天翼の軍師』様が母上とご一緒だと伺ったものですから! いてもたってもいられず……!」
必死に弁解するユリウス王子の瞳には、伝説の軍師への純粋な憧れが燃えている。
「それで、母上。その……軍師様はどちらに……? そして、この方は?」
その問いに、皇妃陛下はふふっ、と扇子で口元を隠し、意味ありげに微笑んだ。そして、その視線を私へと流す。
「ねえリナ、うちのユリウス、可愛らしいでしょう? そなたのようなしっかり者のお友達ができたら、この子にとっても良い刺激になると思うの。……仲良くしてくれたら、母としてはとても嬉しいのだけれど、どうかしら?」
「そ、それは……!」
突然話を振られ、私はフォークを握りしめたまま固まる。ユリウス王子も、母の突然の言葉にみるみる顔を赤くした。
(な、仲良くって……! この王子様、絶対にお見合いか何かだと勘違いしてる顔だ!)
彼の警戒と戸惑い、そしてほんの少しの好奇が入り混じった視線が、ぐさりと私に突き刺さる。
皇妃陛下はそんな私たちの様子を眺め、さらに楽しそうに目を細めた。
(あら、リナも赤くなって……。ふふ、まんざらでもないのかしら?)
「ま、またまたセレスティーナ様はお戯れを……」
しどろもどろになりながら、何とか言葉を絞り出す。
「そ、それでは本日はこれにて……」
椅子を引いてそそくさと退散しようとしたその時、皇妃陛下が私の腕をそっと掴んで引き止めた。
「あら、待ってちょうだいな」
彼女は悪戯っぽく片目をつむいでみせる。
「この子のこと、あなたに紹介しても良いと思うの。……きっと、あなたの力になってくれるはずよ。……ね?」
最後の「ね?」という言葉は、私ではなくユリウス王子に向けられていた。
「え? あ……」
王子は母の真意が全く読めず、ただ混乱したように私と母の顔を交互に見るばかりだ。
そして、私は。
(うわあああ皇妃様! なんて意地の悪いことを! 私の正体、ここでバラすおつもりですか!?)
板挟みになった私は、声にならない悲鳴を上げながら、助けを求めるように視線を彷徨わせる。少し離れた席で、セラさんが肩を震わせ、必死に笑いをこらえながらお茶を飲んでいるのが見えた。
薔薇の庭園の甘い香りが、キリキリと痛み始めた私の胃にはあまりにも刺激的すぎた。