第44話:『皇帝の証と囁く岩』
帝都の宿舎に陽が傾き始めた午後。
窓から差し込む光が、広げた地図の上に長い影を落としていた。マキナの工房をどこへ移すか、インクの匂いが残る紙面を睨んでいたその時、階下から慌ただしい足音が響き、皇帝陛下からの急な召喚命令がもたらされた。
「軍師殿にお渡ししたいものがある、と」
伝令の言葉に、私は思考の海から引き戻される。訝しむ気持ちを押し殺し、すぐさま立ち上がった。
部屋の隅に置かれた衣装へ手を伸ばす。
『天翼の軍師』の顔を隠す深いフード、そして声を歪める変声機。手慣れた仕草でそれらを身につけると、外界の光と音がふっと遠のく。鏡に映らない己の姿を確かめる間もなく背後で扉が軋む微かな音。
セラだ。
彼女が開けた扉の向こう、磨き上げられた黒漆が鈍い光を放つ車椅子が、主を待っている。私の、もう一つの足。
私は滑るようにその身を預け、深く腰を下ろした。
フードの影からセラへ無言で頷くと、彼女もまた静かに肯首を返す。
やがて車輪がゆっくりと回り始め、滑らかに廊下を進んでいく。
私たちは、王宮へと向かった。
通されたのは、荘厳な謁見の間ではなかった。
重い扉が開いた先に広がっていたのは、皇帝個人の広大な宝物庫。ひんやりとした空気が肌を撫で、金属と、そして微かな匂いが鼻をつく。歴代皇帝が集めたという金銀財宝は鈍い光を放ち、伝説の武具は自らの物語を語るかのように静まり返っている。見たこともない美術品の数々が、まるで打ち捨てられたかのように無造作に積まれていた。
その財の山の中心に、人影が一つ。
「……よく来たな、『天翼の軍師』よ」
皇帝陛下が、満足げな笑みを唇の端に浮かべて私を迎えた。その声は、高い天井にこだまして朗々と響く。
「まずは、そなたにこれを授けよう」
皇帝が顎で示すと、侍従がビロードの盆を恭しく捧げ持ってきた。そこに載せられていたのは、一つの白銀のブローチ。帝国の紋章であるグリフォンと、私の称号たる翼が、恐ろしいほど精巧に組み合わされている。
「『皇帝の証』だ。それを持つ者は余の代理人として、帝国のいかなる場所へも自由に立ち入ることを許す。……そなたの奇妙な“仕事”にも役立つであろう?」
「……!」
言葉を失い、ただ深く頭を垂れる。指先に触れたブローチは、見た目以上に重く、そして冷たかった。これ一つで、これまで見えなかった扉がいくつも開く。
「ありがたき幸せに存じます、陛下」
「ふん。せいぜい大事に使うことだな」
皇帝はそう言うと、まるで自慢の玩具箱を披露する子供のように、宝物庫の中を案内し始めた。その足音だけが、静寂の中に響き渡る。
「どうだ、見事であろう。この剣は建国の英雄が使ったとされる『竜殺し』。あちらの鎧はいかなる攻撃も弾くとされる『光の聖鎧』だ。……まあ、これらを持ち出すというのなら、それ相応の理由が必要になるがな?」
悪戯っぽく細められた目が、フードの奥の私を射抜くように見た。
私は皇帝の背中を追いながら、きらびやかな財宝が放つ圧に息を詰まらせていた。
だが、その中で。
私の視線は、部屋の隅に打ち捨てられたガラクタ同然の一つの岩に、縫い付けられたように動かなくなった。
高さ一メートルほどの、ごつごつした黒い岩。
他の宝物のような輝きは何もない。それなのに、その表面にびっしりと刻まれた、渦を巻くような複雑で美しい模様が、異様な存在感を放っている。まるでそれだけが、この空間で呼吸をしているかのように。
「……陛下。あの岩は、一体……?」
「ん? ああ、それか」
皇帝は、まるで道端の石ころでも見るかのように、興味なさげにそちらへ目をやった。
「確か数十年前に、北の山脈にあった古い泉の跡地から見つかったものだ。その泉の水があらゆる病を癒やすとかなんとか、そんな伝承があったらしい。綺麗な模様があるからと当時の領主が献上してきたが、正直、置き場所に困っていてな」
私はまるで磁石に引かれる鉄のように、その岩へと歩み寄っていた。
そして、その表面に刻まれた模様に指先が触れんばかりに顔を近づける。
一見、ただの装飾。複雑な紋様。
だが私の目には、それが意味を持つ“文字”として、はっきりと立ち上がってきた。
脳が揺さぶられる。
チート能力『多言語理解』が、その古代の言語――『古代神聖語』、あるいは『精霊語』と呼ばれる失われた言葉を、凄まじい速度で翻訳していく。
(……これは……『大いなる母、水の御霊に感謝を。この清冽なる泉は、御霊の御心の表れなり。心清き者が、敬虔なる祈りの言の葉を紡ぐ時、御霊は応え、その大いなる癒やしの水を、お与えになるだろう』……?)
ゾクッ、と。
背筋を氷の指でなぞられたような悪寒が走った。
これはただの岩ではない。この世界の魔法や奇跡の根源に触れる、あまりにも危険な情報が記されている。
そして私は、もう一つの驚くべき事実に気づく。
刻まれた文字を目で追っているだけなのに、その「発音」が、まるで古い歌のように自然と頭の中に響いてくるのだ。今すぐにでも、この古代の祈りを正確に口にできる。
(……私、この言葉、読めるだけじゃなくて、話せる……?)
「陛下」
振り返った私の声は、変声機を通しているにも関わらず、自分でもわかるほど微かに震えていた。必死に平静を装う。
「この岩、私が頂くことはできますでしょうか」
「ん? そんなガラクタで良いなら構わんが……。どうした、急に」
皇帝の目が、訝しむように細められる。
「……少し、気になることがございますので。宿舎に持ち帰り、よく調べてみたいと」
そう答えるのが精一杯だった。
(まずい。まずい、まずい……! この内容を、ここで声に出して読んだら、絶対に碌なことにならない……!)
これは王国の『聖女』が行う「奇跡」の、いわば“取扱説明書”ではないか。
もし私がこの祈りを口にして、聖女と同じ現象を起こしてしまったら?
『天翼の軍師』であり『慈悲の女神』でもある私が、さらに『聖女』の奇跡まで。
それは、もはや誰にも収拾のつかない事態を引き起こす。
私はこの奇妙な岩の秘密を胸の奥深くに沈め、慎重に事を進めようと、固く心に誓った。