第41話:『軍師の布石と宰相の拝跪』
『天翼の軍師』という、どこか気恥ずかしい称号を賜った荘厳な叙任式の翌日。私の日々は、与えられた宿舎の一室で、羊皮紙の束とインクの匂いに埋もれていた。
皇帝陛下と交わした秘密の約束──『王冠無力化作戦』。
あまりに困難で、あまりに壮大なその目標を前に、思考は枝分かれし、絡み合っていく。
(ライナーさんたちの『影の部隊』を動かす密命の伝達網。潜入用の特殊装備。マキナさんの『技術研究局』が試作品を作るための莫大な資金、良質な素材、そして腕利きの職人……。何より、これら全てを帝国の誰にも嗅ぎつけられず、極秘裏に進めるための後ろ盾と、自由な裁量権……)
考えれば考えるほど、問題の壁が目の前にそそり立つ。
私がいくら大層な役職を得たところで、巨大な帝国組織の一つの駒に過ぎない。何かを動かすたびに帝都にお伺いを立て、宰相閣下の認可を待っていては、作戦は机上の空論で終わる。
必要なのは、権限の集中。現場──グレイグ中将の元へ、より広範な力を。
幾夜も重ね、インクで汚れた指先で最後の文字を書き終えた朝、私はグレイグ中将と共に再び皇帝陛下と宰相閣下の前に立っていた。
磨き上げられた大理石の床が、居並ぶ者たちの硬い表情を映している。玉座に座す皇帝陛下が、興味深そうに金の瞳を私(の輿)に向けた。
「──それで軍師殿。そなたが帝国の百年を見据えたという次なる献策、一体どのようなものかな?」
その声に応える代わりに、私はグレイグに目配せをする。
彼は心得たとばかりに硬い足音を一つ響かせ、一歩前に出た。分厚い羊皮紙の束が立てる乾いた音が、張り詰めた謁見の間の空気をわずかに揺らす。
提案書に目を通したグレイグが、その意図を完全に咀嚼し、皇帝と宰相を前に内容を要約する。
「……つまり、こういうことです。我が東部方面軍の内部に、新たに『技術研究局』と軍師直属の『特殊遊撃部隊』を設立したい。これらはあくまで方面軍内部の組織改編であり、司令官たる私の裁量の範囲内。しかし、本格的に稼働させるには、いささか金が足りません。ついては陛下に追加の予算措置をお願いしたい、と。……そういうことだな、軍師殿?」
「……御意」
輿の中から、変声機を通した尊大な声で、私は頷いた。
「権限をくれ」ではない。「組織を作るから金をくれ」。
組織改編そのものは方面軍司令官の権限内であり、中央が口を挟む筋合いはない。だが予算となれば話は別。宰相と皇帝の承認が不可欠となる。最も巧妙で、最も円滑な要求の仕方だった。
宰相アルバートは、眉間に深い皺を刻んで腕を組んだ。
「……技術研究局、特殊遊撃部隊……。どちらも前例のない組織だ。それに先の『鉄の馬』の件もある。一体どれだけの予算を呑み込むか、見当もつかんな」
彼の口から漏れたのは、為政者として当然の懸念。
しかしその時、宰相の脳裏に数日前の書庫の薄闇が焼印のように蘇っていた。
目の前の小さな少女が語った、王国を滅ぼすための冷徹で完璧な殲滅作戦の数々。それを聞いた瞬間、帝国の百年、いや二百年の安泰という甘い誘惑に、確かに心が傾いだ。
(……だが、その勝利の先に何がある? 飢えた民、血に染まる大地。そんな礎の上に築かれた平和に、果たして価値はあるのか……?)
彼もまた、覚悟を決めていたのだ。もし皇帝が非情の道を選ぶなら、自らも手を汚し、その茨の道を共に歩む、と。
しかし、皇帝は違った。この輿の中の少女も、違った。
「できる限り、それが今、敵であっても、多くの人が幸せになれるようにする」
最も困難で、しかし最も気高い道を、この国の王と若き軍師は選んだのだ。
「……宰相閣下?」
黙り込んだ宰相を、グレイグが訝しげに呼ぶ。
ハッと我に返った宰相は、ゆっくりと玉座の前へと歩み出た。
そして、何のてらいもなく、その場に深く、深くひざまずく。
衣擦れの音だけがやけに大きく響き、グレイグが息を呑む気配が伝わってくる。輿の中の私も、思わず身じろぎした。
「……陛下」
床に額をこすりつけんばかりの姿勢から、絞り出すような、しかし心の底からの敬意を込めた声が響いた。
「このアルバート、生涯を陛下にお仕えしてまいりました。そして先日、陛下の御心をお聞かせいただいてより、陛下を我が君と仰ぐことを更に誇りに思っております」
その声は、わずかに震えている。
「王国はその強大なる力を他国への侵略に用い、その結果が今の彼らの姿。……陛下が同じ過ちを犯さず、最も困難な慈悲の道をお選びくださったこと。この国の宰相として、そして一人の人間として、心より感謝申し上げます」
宰相は顔を上げぬまま、言葉を続ける。
「──そして、その御心を体現せんとする彼らの力となることが、陛下の気高きご決断を支える礎と存じます。私からも、この本来であれば無茶な要望、通すべきであると強く進言いたします。何卒、ご賢察を」
それは、ただの臣下の言葉ではなかった。
王の理想を共有する唯一無二の伴走者として、その覚悟を示した魂の叫びだった。
皇帝ゼノンは、驚くでもなく、ただ静かにその忠誠を受け止めていた。
「……顔を上げよ、アルバート。そなたの忠義と進言、しかと受け取った」
そして彼は私とグレイグに向き直り、力強く、そしてどこか誇らしげに宣言した。
「グレイグ中将、そして『天翼の軍師』よ! 宰相もこう申しておる。予算の件、許可する! 必要なものは全てリストアップし、宰相に提出せよ。帝国の国庫が許す限り、最大限の支援を約束しよう!」
「ははっ!」
グレイグの腹の底から絞り出すような声が、謁見の間に力強く響き渡った。
帝国の頭脳たる宰相の、心からの賛同。
帝都でできる下準備は、全て整った。私は輿の揺れに身を任せながら、フードの奥で静かに微笑む。
(ふふふ……これで心置きなく開発に集中できる。ライナーさんたちも動かしやすくなる)
帝国の未来を賭けた壮大な歯車が、今、確かな音を立てて回り始めた。
(さあ、帰りましょう。私たちの本当の仕事が待つ、あの戦場へ!)