第350話:『死の行軍、烏合の軍勢』
北の荒野を、骨を軋ませるような寒風が吹き抜けていく。
乾いた大地から巻き上がる赤茶けた砂塵が、空の鈍色と混じり合い、世界を淀んだ色に染め上げていた。
地平線まで、大地は黒く塗り潰されていた。
無数の騎馬、槍の穂先、風に千切れるように翻る獣皮の軍旗。ヴォルガルド覇国が誇る、数万の軍勢が南へと這うように進み始めた。
馬蹄が大地を叩く地鳴りが、腹の底を絶え間なく揺さぶっている。
本陣の中央、ひときわ巨大な軍馬に跨り、覇王クルガンは眼下を見下ろしていた。
「――がっはっはっは!」
分厚い胸板を反らせ、腹の底から湧き上がる哄笑が荒野に響き渡る。
「見よ、ヴィクトル! これが俺の力だ! これほどの数を俺の足元に平伏させたのだ!」
クルガンは両腕を広げ、荒れ狂う風を全身で受け止めている。その黄色に濁った瞳には、絶対的な権力への陶酔と、自らの力への盲信だけがギラギラと燃え盛っていた。南の逆賊など、この黒い波で一息に飲み込んでやる。疑念の欠片もないその顔は、狂気に満ちた恍惚に歪んでいた。
だが。
クルガンの斜め後ろに馬を寄せる参謀、ヴィクトル・フォン・ローゼンベルクの灰色の瞳は、氷のように冷え切っていた。
風で乱れる金髪を煩わしそうに払いのけ、ヴィクトルは銀縁眼鏡の奥から軍列の「真の姿」を舐め回すように観察する。
彼の視線が前衛を捉えた。
「覇王陛下万歳!」「南の逆賊どもを血祭りにあげろォォッ!」
最前列を固める三将軍――ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァの直属部隊。彼らの声はやけに大きく、槍を振り上げる動作は過剰なほどに激しい。
だが、ヴィクトルの目は騙されない。
彼らの首筋にはべっとりと冷や汗が浮かび、叫ぶ声はどこか上擦っている。南と通じているという嫌疑をかけられている彼らは、己の首を繋ぐために必死に「狂信的な忠誠」を演じているだけだ。横目で互いの挙動を監視し合い、誰かが少しでも手を抜けば、即座にそれをクルガンへの生贄にしようと舌なめずりをしている。
さらにその脇を固める、粛清を免れた側近部族たち。彼らの目もまた、見開かれたまま硬直していた。先日、広場で腕を切り落とされた同胞の血の匂いが、未だに鼻腔にこびりついているのだろう。「少しでも疑われれば、次は自分が刻まれる」。その強迫観念が、彼らの喉から空虚な絶叫を絞り出させている。
(……前衛の熱は、ただの恐怖と保身の産物。……だが、問題は……)
ヴィクトルの視線が、軍勢の半数以上を占める中盤から後方へと移った。
そこには、ぞくりとするほどの『静寂』があった。
何万という人間がいるのに、声一つ上がらない。
兵士たちの目は足元の土に向けられ、武器を持つ手は力なく下がっている。誰一人として、南の空――これから向かう戦場を見据えていない。
彼らはただ、隣の者の背中に隠れるように、ずるずると靴底を擦っているだけだった。列のあちこちから、ゴホゴホと重い咳が漏れ聞こえ、疲労と絶望の溜息が風に紛れて消えていく。
(……これは、軍隊ではない)
ヴィクトルの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。
懐に忍ばせた、南からの報告が途絶えた白紙の束。その存在が、急に焼け付くように感じられる。
(中身のない、ただの巨大な死体だ……!)
前衛が一度でも崩れれば、この後方の烏合の衆は、誰の指示を待つこともなく雪崩を打って逃げ出すだろう。
クルガンは孤立している。彼を支えているのは、忠誠でもなければ、彼が信じて疑わない恐怖ですらない。
『天翼の軍師』が蒔いた、甘い毒。
「南には豊かな食事がある」「バラクは我々を救ってくれた」……その見えない刃が、すでにこの数万の軍勢の心臓を、音もなく食い破っていたのだ。
「……ヴィクトル。どうした、顔色が悪いぞ」
クルガンが、首だけを巡らせて見下ろしてきた。
「……いえ。風が、少々冷たいようです」
ヴィクトルは完璧な作り笑いを顔に貼り付け、手袋越しの指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
(……見切り時、ですね)
冷え切った頭脳が、恐るべき速度で次の盤面を構築し始める。
この泥船は、南の防壁にぶつかるまでもなく沈む。ならば、自分がいかにしてこの泥濘から無傷で抜け出し、自らの価値を別の形で高く売り込むか。
彼は手綱を握り直し、周囲の側近たちに悟られぬよう、馬の歩みをほんのわずかだけ、クルガンの背後へと遅らせた。
太陽が西の地平線に触れ、赤黒い光が荒野を毒々しく染め上げ始めた。
「前へ! もっと進め! 休むことは許さん!」
クルガンの苛立ちを含んだ号令が飛び、強行軍で疲弊しきった兵士たちの列に重い呻き声が連鎖する。
長く伸びた黒い軍勢の影が、まるで大地に刻まれた巨大な傷痕のように広がっていく。
極限の疲労と空腹と、張り詰めた疑心暗鬼。
膨れ上がった風船のような軍勢は、今、ほんの一針の刺激で破裂する寸前だった。
黄昏の荒野を吹き抜ける風が、かすかに甲高い、金属の唸るような音を孕み始めていることに、まだ誰も気づいていない。
見えざる死神は、すでに彼らの頭上にその照準を合わせ、静かに息を殺していた。




