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ようこそ最前線の地獄(職場)へ。 軍師リナ、8歳です  作者: 輝夜
第十一章:『一年という名の礎』

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第350話:『死の行軍、烏合の軍勢』

 

 北の荒野を、骨を軋ませるような寒風が吹き抜けていく。

 乾いた大地から巻き上がる赤茶けた砂塵が、空の鈍色と混じり合い、世界を淀んだ色に染め上げていた。


 地平線まで、大地は黒く塗り潰されていた。

 無数の騎馬、槍の穂先、風に千切れるように翻る獣皮の軍旗。ヴォルガルド覇国が誇る、数万の軍勢が南へと這うように進み始めた。

 馬蹄が大地を叩く地鳴りが、腹の底を絶え間なく揺さぶっている。


 本陣の中央、ひときわ巨大な軍馬に跨り、覇王クルガンは眼下を見下ろしていた。


「――がっはっはっは!」


 分厚い胸板を反らせ、腹の底から湧き上がる哄笑が荒野に響き渡る。

「見よ、ヴィクトル! これが俺の力だ! これほどの数を俺の足元に平伏させたのだ!」


 クルガンは両腕を広げ、荒れ狂う風を全身で受け止めている。その黄色に濁った瞳には、絶対的な権力への陶酔と、自らの力への盲信だけがギラギラと燃え盛っていた。南の逆賊など、この黒い波で一息に飲み込んでやる。疑念の欠片もないその顔は、狂気に満ちた恍惚に歪んでいた。


 だが。

 クルガンの斜め後ろに馬を寄せる参謀、ヴィクトル・フォン・ローゼンベルクの灰色の瞳は、氷のように冷え切っていた。


 風で乱れる金髪を煩わしそうに払いのけ、ヴィクトルは銀縁眼鏡の奥から軍列の「真の姿」を舐め回すように観察する。

 彼の視線が前衛を捉えた。


「覇王陛下万歳!」「南の逆賊どもを血祭りにあげろォォッ!」

 最前列を固める三将軍――ボルガス、ゾルヴァーグ、ユルヴァの直属部隊。彼らの声はやけに大きく、槍を振り上げる動作は過剰なほどに激しい。

 だが、ヴィクトルの目は騙されない。

 彼らの首筋にはべっとりと冷や汗が浮かび、叫ぶ声はどこか上擦っている。南と通じているという嫌疑をかけられている彼らは、己の首を繋ぐために必死に「狂信的な忠誠」を演じているだけだ。横目で互いの挙動を監視し合い、誰かが少しでも手を抜けば、即座にそれをクルガンへの生贄にしようと舌なめずりをしている。

 さらにその脇を固める、粛清を免れた側近部族たち。彼らの目もまた、見開かれたまま硬直していた。先日、広場で腕を切り落とされた同胞の血の匂いが、未だに鼻腔にこびりついているのだろう。「少しでも疑われれば、次は自分が刻まれる」。その強迫観念が、彼らの喉から空虚な絶叫を絞り出させている。


(……前衛の熱は、ただの恐怖と保身の産物。……だが、問題は……)


 ヴィクトルの視線が、軍勢の半数以上を占める中盤から後方へと移った。

 そこには、ぞくりとするほどの『静寂』があった。


 何万という人間がいるのに、声一つ上がらない。

 兵士たちの目は足元の土に向けられ、武器を持つ手は力なく下がっている。誰一人として、南の空――これから向かう戦場を見据えていない。

 彼らはただ、隣の者の背中に隠れるように、ずるずると靴底を擦っているだけだった。列のあちこちから、ゴホゴホと重い咳が漏れ聞こえ、疲労と絶望の溜息が風に紛れて消えていく。


(……これは、軍隊ではない)


 ヴィクトルの背筋を、強烈な悪寒が駆け抜けた。

 懐に忍ばせた、南からの報告が途絶えた白紙の束。その存在が、急に焼け付くように感じられる。


(中身のない、ただの巨大な死体だ……!)


 前衛が一度でも崩れれば、この後方の烏合の衆は、誰の指示を待つこともなく雪崩を打って逃げ出すだろう。

 クルガンは孤立している。彼を支えているのは、忠誠でもなければ、彼が信じて疑わない恐怖ですらない。

『天翼の軍師』が蒔いた、甘い毒。

「南には豊かな食事がある」「バラクは我々を救ってくれた」……その見えない刃が、すでにこの数万の軍勢の心臓を、音もなく食い破っていたのだ。


「……ヴィクトル。どうした、顔色が悪いぞ」

 クルガンが、首だけを巡らせて見下ろしてきた。

「……いえ。風が、少々冷たいようです」

 ヴィクトルは完璧な作り笑いを顔に貼り付け、手袋越しの指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。


(……見切り時、ですね)


 冷え切った頭脳が、恐るべき速度で次の盤面を構築し始める。

 この泥船は、南の防壁にぶつかるまでもなく沈む。ならば、自分がいかにしてこの泥濘から無傷で抜け出し、自らの価値を別の形で高く売り込むか。

 彼は手綱を握り直し、周囲の側近たちに悟られぬよう、馬の歩みをほんのわずかだけ、クルガンの背後へと遅らせた。


 太陽が西の地平線に触れ、赤黒い光が荒野を毒々しく染め上げ始めた。

「前へ! もっと進め! 休むことは許さん!」

 クルガンの苛立ちを含んだ号令が飛び、強行軍で疲弊しきった兵士たちの列に重い呻き声が連鎖する。


 長く伸びた黒い軍勢の影が、まるで大地に刻まれた巨大な傷痕のように広がっていく。

 極限の疲労と空腹と、張り詰めた疑心暗鬼。

 膨れ上がった風船のような軍勢は、今、ほんの一針の刺激で破裂する寸前だった。


 黄昏の荒野を吹き抜ける風が、かすかに甲高い、金属の唸るような音を孕み始めていることに、まだ誰も気づいていない。

 見えざる死神は、すでに彼らの頭上にその照準を合わせ、静かに息を殺していた。


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― 新着の感想 ―
 輝夜さん、こんにちは。 「ようこそ最前線の地獄(職場)へ。 軍師リナ、8歳です 第350話:『死の行軍、烏合の軍勢』」拝読致しました。  大地を埋め尽くす、覇国の行軍。  クルガン、とてもご満悦…
 さて、死神の鎌(マキナキャノン)が振り下ろされるのは誰なのか。クルガンは完全に除外されるとして、やはり可能であればまずヴィクトルでしょうか。その状況判断力の高さから、死神の鎌が他者に振り下ろされれば…
更新お疲れ様です。 『死体』言い得て妙(^^;; 『見切り時』 自身の『頭脳』を高く買ってくれる陣営に鞍替え画策も!? 次回も楽しみにしています。
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