おまけの話:『監査官の躊躇い、回廊の攻防』348.5
北壁の砦の夜は石造りの冷気が足元から這い上がってくるように冷え込む。
薄暗い回廊をアイゼンハルト子爵は一人規則正しい硬質な靴音を響かせて歩いていた。一分の隙もなく整えられた軍服、灰色の瞳に宿る冷徹な光は帝都の内務省で「歩く規律」と恐れられた監査官そのものの姿である。
彼の手には分厚い紙の束が握られていた。
一番上に記されているのは『荒野の特別休憩施設(通称:茶室)建設費用の詳細』。
(……いくら皇帝陛下の御裁可があったとはいえ、あの前線基地にそぐわぬ数々の特注品。採算度外視の職人手配。この過剰な支出は監査官として一言、いや、小一時間は釘を刺しておかねばならん)
アイゼンハルトは生真面目な眉間に皺を刻み、軍師の私室へと向かっていた。頭の中ではいかにして彼女の痛いところを突き、財政規律の重要性を説き伏せるか、その完璧な論陣がすでに組み上がっている。
やがて目的の重厚な木の扉の前にたどり着く。
ノックをしようと手を上げたその時だった。
扉がほんのわずかに――指一本分だけ開いていた。換気のためか、あるいは侍女が退出した際の手違いか。
アイゼンハルトの耳にその細い隙間から、か細い声が漏れ聞こえてきた。
「……うーん……うーーーん……」
それは昼間の軍議で冷徹な采配を振るう『天翼の軍師』の威厳ある声ではなかった。
アイゼンハルトは咎めるような言葉を飲み込み、無意識にその隙間から部屋の中を覗き込んでしまった。
ランプの頼りない光が揺れる薄暗い室内。
巨大な北方の地図が広げられた机に小さな少女が突っ伏していた。
銀の仮面は傍らに置かれ、亜麻色の髪を振り乱しながら彼女は両手で頭を抱え込んでいる。
(……どうやって説得すればいいのか……。彼らにあんな危険なことを……うーん……)
少女の呟きが静かな部屋に落ちる。
アイゼンハルトの灰色の瞳がわずかに見開かれた。
彼女の指先が白くなるほど固く握りしめられている。その小さな肩は見えない巨大な重圧に耐えかねるように微かに震えていた。
アイゼンハルトには、その光景の意味を瞬時に理解できた。
彼女は今、次の盤面の、その命の選択に苦悩しているのだ。
将軍たちは勝利のために兵を動かす。官僚は国家のために数字を動かす。その中で生じる犠牲は「必要経費」として処理するのが常識だ。彼自身もそう考えて生きてきた。
だがこの少女は違う。
彼女は盤上の駒の一つ一つに命と顔があることを知っている。それを知った上で自らの手が血に染まる業をたった一人で背負い込もうとしているのだ。
(……なんという……)
アイゼンハルトの喉が干からびたように鳴った。
自分は今この少女に何を言おうとしていた? 『茶室の費用がかかりすぎている』だと?
何万という命の天秤を素手で支え、血の涙を流すような苦悩の只中にいる彼女に対しそんな小役人のような説教を叩きつけようとしているのか。
アイゼンハルトの手が空中でピタリと止まった。
扉を叩くことができない。
かといってこのまま引き返すこともできず、彼は完璧に整えられた軍服のまま扉の前で右往左往し始めた。
(どうする……今入るのは最悪だ。しかし監査官として……いや、だが……!)
冷徹な官僚がまるで迷子になった子供のように扉の前で手を上げたり下ろしたり、一歩進んでは二歩下がるという彼らしからぬ不審な挙動を繰り返す。
その、完全に周囲への警戒が吹き飛んでいたアイゼンハルトの背後から。
音もなく一人の男が近づいていた。
セラの補佐をしている元シュタイナーの副官であるヘルマン。長年北壁の厳しい環境で隠密のような動きを身につけている彼は書類の束を抱えたまま足音一つ立てずに廊下を歩いてきた。
ヘルマンは軍師の部屋の前で不審な動き(おろおろ)をしている監査官の姿に訝しげに眉をひそめた。
「……何をしてお――」
ヘルマンが低く厳粛な声で声をかけたその瞬間。
「びっくぅ!?」
神経をすり減らし、完全に油断していたアイゼンハルトの体が文字通り跳ね上がった。
彼の喉から帝国のエリート官僚とは思えぬ奇声が漏れる。
同時に小脇に抱えていた分厚い監査書類の束が手からすっぽ抜けた。
ばさささささささささッ!!
大量の紙が真っ白な吹雪のように派手な音を立てて回廊にぶちまけられる。
「びっくぅ!?」
そのあまりに派手なリアクションと盛大な音に今度は背後から声をかけたヘルマン自身が驚き、肩をすくませて目を丸くした。
アイゼンハルトは血相を変えて振り返る。
相手がヘルマンだと認識した瞬間、彼は顔を真っ青(あるいは真っ赤)にしながら床に散らばる書類には目もくれず、人差し指を口元に必死に押し当てた。
「……ッ! ……ッ! しー!! しー!!」
(静かに! 今は駄目だ! 軍師殿が苦悩しておられるのだ!)
声にならない必死の形相で両手を激しく上下させ、沈黙を要求する監査官。
普段の氷のような態度からは想像もつかないそのパニックぶりにヘルマンはただただ困惑し、瞬きを繰り返すしかなかった。
だがその静寂を守るための努力は数秒遅かった。
書類が散乱した派手な音が室内にいる鋼の盾の耳を逃すはずがない。
ギィィ……。
扉がゆっくりと、そして不気味なほど重々しく内側へ開かれた。
扉の隙間からヌッと顔を出したのは完全武装のヴォルフラムだった。
彼女は床に散乱する紙、硬直するヘルマン、そして顔を真っ赤にして人差し指を立てたままフリーズしているアイゼンハルトを順番に一瞥した。
そしてその蒼い瞳をスッと細め、極寒のジト目をアイゼンハルトに向けた。
「……監査官殿」
地獄の底から響くような低く冷たい声。
「部屋の前で何を騒いでおりますか?」
「…………ッ」
アイゼンハルトは己の官僚としての威厳が北の冷たい石床の上で粉々に砕け散っていく音を確かに聞いた。
彼は言葉を失い、ただ足元に散らばった『茶室の領収書』を虚ろな目で見下ろした。
小役人、アイゼンハルトが現れた!
ヘルマンが現れた!
…小役人、アイゼンハルトはヘルマンに気が付かない!
ヘルマンの奇襲攻撃!<メダパニ>
…小役人、アイゼンハルトは混乱した!
…ヘルマンも混乱した!
ヴォルフラムが現れた!
ヴォルフラムの攻撃!<非情の突っ込み!>
…小役人、アイゼンハルトの精神力は尽きた!




