第337.5話:『北壁の厨房戦線と、見えざる檻』
ヴォルガルド覇国が血と疑心暗鬼に塗れていたまさにその頃。
帝国北壁の砦、その巨大な厨房は全く別の意味で戦場と化していた。
「――火力が足りません! もっと薪を!」
「パンの生地、発酵が甘いですわ! 温度管理を徹底しなさい!」
普段は完璧な微笑みを崩さない侍女長クララの戦乙女のような檄が飛ぶ。
厨房の熱気は凄まじく、立ち上る湯気と肉の焼ける匂い、そして油の弾ける香ばしい匂いが渦を巻いていた。
その喧騒の中心で私は踏み台に乗り、銀の仮面を額に押し上げたまま巨大な鉄板と格闘していた。
「よし、ひっくり返します! ユリウス皇子、今です!」
「お、おうッ!」
私の合図で額に汗を光らせたユリウス皇子が、大きなヘラを使って分厚い肉の円盤を見事に裏返した。ジュウウッ! と盛大な音が響き、食欲を暴力的に刺激する肉汁の匂いが爆発する。
「レオン様、バンズの焼き加減はどうですか?」
「完璧だ。外はカリッと、中はふんわりと仕上がっている。……しかしこの丸いパンに肉と野菜を挟むという発想……実に合理的だ。片手で完全な栄養が摂取できるとは」
レオン様は顔に小麦粉をつけながらも、すっかりこの未知の料理の「効率性」に魅了されていた。
「ゼイド様! ポテト揚がりました! 塩を振ってください!」
「任せろ!」
騎士見習いのゼイド様はもはや剣ではなく巨大な金網を振るい、黄金色に揚がった芋のスティックに流れるような手首のスナップで塩を振りかけている。その顔は剣の稽古以上に真剣だった。
(ふふふ……順調、順調!)
私が提案したのは前世の記憶に刻まれた最強のファストフード。
肉の旨味を閉じ込めた『ハンバーガー』と悪魔的な中毒性を持つ『フライドポテト』。そして寒い北の大地に最適な、熱々の肉汁が溢れる『肉まん』だ。
『道の駅』のプレオープンに向けてこれらを北の民に振る舞う。
恐怖と暴力で縛り付けるクルガンに対し、私は「圧倒的な美味しさと豊かさ」で彼らの胃袋と心を物理的に侵略するつもりだった。
「軍師殿……」
ふと厨房の隅から、ひどく疲れたような声がした。
監査官アイゼンハルトだ。彼は山積みの食材の領収書を握りしめ、こめかみを押さえていた。
「……いくら『交流のため』とはいえこの食材費は異常です。上質な小麦に大量の牛豚の挽肉。さらにこの油で揚げるための莫大な油脂……。これはもはや軍の兵站を圧迫しかねない……」
彼が官僚としての正論を口にしたその時。
クララが出来立てのハンバーガーと山盛りのフライドポテトを乗せた皿を、音もなく彼の前に置いた。
「監査官殿。まずは検食をお願いいたします」
「……いや、私は職務中であり……」
「これも監査の一環でございますわ」
クララの有無を言わせぬ微笑みに気圧され、アイゼンハルトは渋々ハンバーガーを手に取った。
そして一口。
「…………っ!」
アイゼンハルトの灰色の瞳が限界まで見開かれた。
溢れ出す肉汁。それをしっかりと受け止めるバンズの甘み。シャキシャキとしたレタスと酸味の効いた特製ソースが、完璧なオーケストラを奏でている。
彼は言葉を失い、無意識にもう一口、さらに一口と貪るように食べ進めた。
「……ポテトもどうぞ」
私が差し出したフライドポテトを口に放り込む。
サクッ。ホクッ。
そして絶妙な塩気。
アイゼンハルトは天を仰いだ。
「……これは……」
彼は震える手でペンを握り直し、領収書の束に乱暴に『承認』のサインを書き殴った。
「……これは兵の士気を劇的に向上させる『戦略物資』だ。……至急、増産体制を整えるべきである……。おかわりを頂けるか」
かくして冷徹な監査官は、ジャンクフードの前に完全に陥落した。
◇◆◇
厨房が熱気に包まれている間、私はふと冷たい風を感じて振り返った。
スチャッ、と。
いつの間にかゲッコーさんが、音もなく私の背後に片膝をついていた。
その顔は厨房の空気とは対極にある、血と硝煙の匂いを微かに纏っている。
「――リナ様。ご報告を」
「……ゲッコーさん。どうしました?」
私は仮面を下ろし、周囲に気づかれぬよう声を潜めた。
「覇国より放たれた密偵どもですが……現在、『北辰同盟(三部族)』の領域からの締め出しに成功しております」
「その為、事態を把握できずに焦りを募らせたヴィクトルが正式に覇国の使者を『風の民』の部族へ向けて出立させた模様です」
「使者が……」
私はごくりと喉を鳴らした。
「これに対しバラク殿とシュタイナー中将閣下は、使者の到着するタイミングに合わせて徹底的に『合同演習(ガチの殴り合い)』を行うとのこと。……その凄惨な傷跡を見せつけ、我らが死闘を演じていると信じ込ませる腹積もりのようです」
ゲッコーは淡々と、二人の老将の立てた血生臭い偽装工作を告げた。
「軍師殿、いかがなされますか。危険と判断なされるのであれば、即刻中止させますが」
私は一瞬思考を巡らせ、静かに頷いた。
「……問題ありません。バラク族長とシュタイナー中将の現場の判断を支持すると伝えてください」
「御意」
「彼らが南の情報を本国へ持ち帰ることは当面ございません。リナ様はどうぞこちらの『交流』に専念なさいませ」
影は再び音もなく闇へと溶けていった。
◇◆◇
同じ頃。
北壁の砦から離れた分厚い石壁に囲まれた重厚な施設の一室。
鉄格子のはめられた窓のない部屋に、覇国から放たれた数名の密偵たちが囚われていた。
彼らはバラクの野営地へ潜入を試み、あっけなく『影』たちに狩られた者たちだ。拷問を覚悟し恐怖に震えながら固く口を閉ざしていた彼らの前に、突然温かい湯気が立ち上る木箱が差し入れられた。
「……なんだこれは。……毒か?」
一人が恐る恐る蓋を開ける。
中に入っていたのはふっくらと白く丸い、見たこともない食べ物だった。
熱々の『肉まん』。
漂ってくる甘く香ばしい小麦の匂いと濃厚な肉の香りに、彼らの腹の虫が抗いがたい悲鳴を上げた。覇国で口にしていたのは硬い干し肉と泥水のような酒だけだ。
「……食ってやる……! どうせ死ぬなら……!」
一人がヤケクソのように肉まんを掴み、噛みついた。
じゅわぁっ。
「…………あ……」
男の目から大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「……おい、どうした! やっぱり毒か!」
「……ちがう……」
男は口の周りを肉汁で汚しながら泣きじゃくった。
「……うめぇ……。なんだこれ……温けぇ……。すっげぇ美味ぇ……」
その言葉に、他の者たちも我先にと肉まんに噛みついた。
石の部屋に男たちの嗚咽と咀嚼音だけが響く。
「……俺たちは今まで何を食ってたんだ……」
「……クルガン様はこんな美味いもの、一度だってくれなかった……」
彼らの心の中で絶対的だったはずの覇王への忠誠が、熱々の肉汁と共に音を立てて溶け出していた。
扉の向こうでは『影』の隊員がその様子を冷ややかに聞き届け、小さく頷いていた。
「……胃袋から忠誠を切り崩す。……軍師様の恐ろしさは剣よりも深いな」
◇◆◇
そして翌日、『道の駅』の工事現場を横目に見ながらのプレオープンを和風な建物の近くの広場で行った。
招待された北辰同盟の民たちは、最初こそ眼下に見える帝国の施設に警戒心を露わにしていた。
だが広場に設けられた屋台から漂うハンバーガーとポテトの暴力的な香りに、彼らの足は自然と引き寄せられていった。
「なんだこの丸いパンは……肉が挟んであるぞ?」
一人の戦士が恐る恐るハンバーガーを口にする。
「…………ッ!!」
その瞬間、彼の目に雷に打たれたような衝撃が走った。
周囲の民たちも次々とハンバーガーとポテトを口に運ぶ。
最初は無言だった。
だがやがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……美味い……」
その一言が堰を切った。
「なんだこれ! 肉の味が濃い! パンが甘い!」
「この細長い芋、塩気が絶妙だ! 手が止まらん!」
「あっちの白いふかふかのやつ(肉まん)もとんでもなく美味いぞ!」
広場は瞬く間に熱狂の渦に包まれた。
老いも若きも口の周りをソースで汚しながら、無心で料理を貪っている。
その顔には長年彼らを縛り付けていた飢えや寒さへの恐怖は微塵もない。ただ目の前の「圧倒的な美味しさ」への純粋な感動だけがあった。
「……なあ」
バラクの部族の若い戦士がハンバーガーを両手で大事そうに持ちながら、隣の仲間に呟いた。
「……こんな美味いものが毎日腹いっぱい食える国と……俺たち、本気で戦おうとしてたのか?」
「……馬鹿げてるよな」
仲間もフライドポテトを口に放り込みながら、自嘲気味に笑った。
「……クルガン様がくれるのは戦いと泥水みたいな酒だけだ。……俺はもう、あの寒くてひもじい暮らしには戻りたくねえよ……」
その言葉は誰に強制されたものでもない。
彼らの心の底からじわっと湧き出た、本物の実感だった。
その光景を私は小高い丘の上から、満足げに見下ろしていた。
「ほら、言ったでしょう?」
私は隣に立つセラさんやユリウス皇子たちに向かって、仮面の下で得意げに笑った。
「胃袋を掴めば、血は流れないんです」
北の荒野に新しい文化が根付き始めた瞬間だった。
血を一滴も流さず、恐怖を煽ることもなく、圧倒的な『豊かさ』で北の民の心の侵略が開始された。




