第337話:『覇王の使者、豊穣の野営地』
灰色の雲が低く垂れ込める北の空の下、二十騎の黒い騎馬隊が土煙を上げて荒野を駆けていた。
彼らはヴォルガルド覇国、クルガン直属の公式な使者団だ。
先頭を行く使者の男は、冷たい風に顔をしかめながら、手綱を握る手に力を込めた。彼が帯びているのは、参謀ヴィクトルからの密命。
『――名目は病のその後の見舞い。だが真の目的は、バラクの野営地の内情を隅々まで探り出し、あの老いぼれが何を隠しているのか暴くこと。……もし視察を拒むようなら、それを反逆の証拠とし、直ちに討伐の大義名分とする』
使者は、口の端に冷酷な笑みを浮かべた。
辺境の貧弱な部族など、少し脅せばすぐにボロを出す。何を見つけ出そうと、些細な難癖をつけてバラクの首を獲る口実にしてやる。それが彼の役目だった。
やがて、地平線の先に『風読む民』の野営地が見えてきた。
使者たちは馬の速度を落とさず、威圧するように柵の前まで乗り付ける。だが、彼らを出迎えたのは、予想していた怯えた民の姿でも、平身低頭する族長の姿でもなかった。
野営地の入り口で、数名の屈強な戦士を従えて立っていたのは、族長の息子アランだった。
彼は覇国の黒い旗印を見ても顔色一つ変えず、静かに、そして冷淡に告げた。
「――ようこそおいでくださった、覇王陛下の使者殿。ですが生憎、父は不在にしております」
「不在だと?」
使者が馬の上から傲慢に見下ろす。
「覇王陛下からの直々の使いだぞ。どこをほっつき歩いている。すぐに呼び戻せ」
「それはできかねます」
アランは顔を上げ、使者の目を真っ直ぐに射抜いた。
「父は現在、覇王陛下の命に従い、帝国国境へ侵攻中ですので」
その言葉に、使者は一瞬言葉を失った。
帝国へ侵攻中? あの老いぼれが、自ら最前線に出ているというのか。
(……チッ。不在では難癖のつけようがない。だが、ここで引き下がるわけにはいかん)
使者は馬から降りると、不敵な笑みを浮かべてアランに歩み寄った。
「ほう。それは殊勝な心がけだ。……ならば、我々は族長が凱旋するまで、この野営地で待たせてもらおう。陛下の見舞いの品を、直接渡さねばならんからな」
それは、居座って内情を洗いざらい探り出すという宣言だった。アランは微かに眉をひそめたが、すぐに無表情に戻り、「……どうぞ、ごゆるりと」とだけ言って道を開けた。
◇◆◇
野営地に入り、彼らにあてがわれた天幕に荷を下ろした後、使者たちは早速「粗探し」のための視察を開始した。
武器庫の隠し財産、不満を抱く民の密告、あるいは病で苦しむ凄惨な光景。彼らは覇国が支配する他の部族で幾度となく見てきた、あの「ピリピリとした飢えと恐怖の空気」を探し求めて歩き回った。
だが。
広場を抜け、水汲み場を通り、市場の跡地を巡るにつれ、使者の顔から余裕の笑みが消え、代わりに困惑の色が濃くなっていった。
「……なんだ、ここは」
使者が信じられないものを見るような目で呟いた。
彼の目の前を、数人の子供たちが笑い声を上げながら駆け抜けていく。その頬は赤く染まり、泥だらけの襤褸切れ(ぼろぎれ)ではなく、色鮮やかな新しい布地で作られた服を着ていた。
井戸端で談笑する女たちの顔にも、覇国の民特有の、明日を生きる不安に怯えた暗い影は一切ない。
そして何より、使者の鼻腔を強烈に刺激したのは、野営地の至る所から漂ってくる「匂い」だった。
獣の肉をただ焼いただけの獣臭い匂いではない。
香草の爽やかな香りと共に煮込まれた、複雑で深いスープの匂い。そして、北の荒野では絶対に嗅ぐことのない、甘く香ばしい小麦の焼ける匂い――パンの匂いだ。
「……おい。あれを見ろ」
供の兵士が、震える指で広場の一角を指し示した。
そこでは、数人の男たちが大きな窯を囲み、顔を真っ赤にして額の汗を拭いながら、丸く膨らんだパンを次々と焼き上げている。その傍らには、南方でしか採れないはずの、色とりどりの野菜があった。
使者はゴクリと喉を鳴らした。
彼らがいる覇国の本拠地、『黒の宮殿』でさえ、こんな豊かな食事は将軍クラスでなければ口にできない。それが、辺境のただの部族の、一介の民の口に入っているというのか。
(貧弱な南の部族だと? 冗談ではない。この豊かさは本物だ。だが、どうやって?)
使者の脳内で、ヴィクトルから聞かされていた「前提」が音を立てて崩れ落ちていく。
病で死にかけているはずの民は血色が良く、飢えているはずの村には美味そうな匂いが充満している。
彼らは、何か得体の知れない巨大な「バグ」の中に迷い込んだような錯覚を覚えた。
自分たちが知っている蛮族の野営地ではない。ここは、まるで別の国だ。
「……隊長。なんだか、見られているような気がしますぜ」
供の兵士が、怯えた声で背後を振り返る。
使者もハッとして周囲を見回した。
誰も彼らを直接見てはいない。だが、薪を割る男の背中から、布を洗う女の横顔から、そして、片隅で帳簿をつけている見慣れぬ老人の丸まった背中から。
無数の見えざる「目」が、自分たちの一挙手一投足を冷ややかに観察しているような、ねっとりとした居心地の悪さが肌にまとわりついてくる。
(……この村は、狂っている。早く、バラクの奴が戻ってこい……!)
使者は、先ほどまでの傲慢さをすっかり忘れ、目に見えない恐怖に背筋を凍らせながら、そそくさとあてがわれた天幕へと逃げ帰るしかなかった。
彼らが待つバラクは、その頃、工事中の『道の駅』に隣接する演習場で、シュタイナー中将率いる帝国軍と肩を並べていた。
焚火を囲み、大鍋から立ち上る湯気を浴びながら、帝国兵が焼いたばかりのパンを頬張り、クララが監修した栄養満点のスープを啜っている。これから始まる合同演習の前に、敵味方の区別なく、温かい昼食を共にしていたのだ。
その和やかな光景を、彼らが知る由もなかった。
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とても、ありがたいです。感謝致します。
書き進めていく、エネルギーになります。
拙い物語ではありますが、引き続き、一緒に楽しんで頂けると、嬉しいです。
輝夜




