第38話:『皇帝の返書と二つの工房』
皇帝陛下へ個人謁見を願い出るという前代未聞の上申。
その返事を待つ数日間は、さすがの私も少しだけ落ち着かない気分だった。
(……もし断られたらどうしよう。いや、不敬罪で首が飛んだりして……)
そんな不安を抱えながらも私の日常は変わらない。昼間は帝都に滞在する将校たちのための書類整理を手伝い、夜はグレイグとセラの夕食を作る。それが今の私のルーティンだった。
「――ん。美味い。相変わらずお前の作る飯は絶品だな、リナ」
その夜のメニューは、鶏肉と茸をクリームで煮込んだ身体の温まるシチューだった。グレイグは無骨な手つきでスプーンを動かしながら満足げに頷いている。
「いつもありがとうございます、リナ。このハーブの香り、とても落ち着きますわ」
セラさんも優雅に、しかししっかりと完食している。
この食卓の風景だけは最前線の駐屯地にいた頃から何も変わらない。この何気ない時間が、今の私の心を一番穏やかにしてくれた。
「……それで、陛下からの返事はまだなのか?」
食後の紅茶を飲みながら、グレイグが少し心配そうな顔で尋ねてきた。
「ええ、まだ何も……」
私がそう答えたまさにその時。
執務室の扉がノックされ、皇帝陛下の紋章が入った封蝋で閉じられた一通の書状が届けられた。
私とセラはゴクリと息を飲む。グレイグがゆっくりとその封を開けた。
「……『謁見を許可する』、だと」
書状に目を通したグレイグは、安堵と呆れが混じったような複雑なため息をついた。
「場所は明日の夜、王宮の第二書庫。同席者は宰相閣下のみ……だそうだ。リナ、お前、本当にとんでもない幸運の持ち主だな」
「……良かった……」
私は胸をなでおろした。これで前に進める。
そしてもう一つ。
私には気になることがあった。マキナの工房だ。
あの後、私のなけなしの報奨金と、グレイグが「新型攻城兵器の開発」の名目で確保した帝国軍の予算の一部がマキナの元へと送られたはずだ。
その資金で彼女の研究がどこまで進んでいるのか。私はグレイグに頼んで、マキナの工房から取り寄せた進捗報告書に目を通した。
◇◆◇
その頃、帝都から少し離れた森の中。
『マキナの何でも工房』は以前とは比べ物にならないほど活気に満ちていた。
帝国軍から派遣された腕利きの鍛冶職人や錬金術師たちが、マキナの指示の下、昼夜を問わず未知の機械の部品を造り出している。
「そこ! 圧力弁の精度が甘い! 0.1ミリの誤差も許さないって言ったでしょ!」
「ボイラーの素材は鉄じゃダメだ! もっと熱と圧力に強いミスリル合金を使うんだよ! 予算なら帝国軍が出してくれるんだから!」
マキナは水を得た魚のように活き活きと職人たちの指揮を執っていた。
彼女の頭の中にある前世の科学知識。それをこの世界の職人たちの、魔法さえも応用する卓越した技術が形にしていく。
その日、彼女はついに試作型『蒸気機関』の最初の燃焼実験に挑んでいた。
巨大なミスリル合金製のボイラーに水が満たされ、その下で魔法の炎がゴオオッと音を立てて燃え盛る。
「圧力、上昇中! ゲージ、安定!」
「よし! このままピストンに蒸気を送るぞ! みんな、離れて!」
マキナが興奮した声で叫ぶ。
職人たちが固唾をのんで見守る中、彼女はゆっくりとメインバルブのレバーを引いた。
シューーーッという甲高い音と共に高圧の蒸気がシリンダーへと送り込まれる。
巨大な鉄のピストンが、ギ、ギギ……とわずかに動き始めた。
「……動いた!」
誰かが歓声を上げた。
マキナの目に勝利の光が宿る。
「やった! やったぞ! これで世界は変わ――」
彼女がそう叫び終えるよりも早く。
ドーーーン!
工房の建物が轟音と共に盛大な爆発を起こした。
安全弁の設計にわずかなミスがあったのだ。
黒い煙と蒸気、そして職人たちの怒号が森の中に響き渡る。
マキナはその爆発の中心で、頭から足の先まで真っ黒な煤にまみれて大の字にひっくり返っていた。
「……あちゃー……。また失敗かぁ……。ま、失敗は成功の母ってね!」
帝都の執務室でその報告書を読んだ私は、思わず頭を抱えた。
(……私の報奨金が煙に消えていく……!)
明日の皇帝陛下との謁見。
絶対に失敗は許されない。私は改めて固く心に誓うのだった。