第4話:『空色のワンピースと輝かしい勘違い』
「軍の書記官」
なんという甘美な響きだろう。帝都のエリートだけが許される、輝かしい称号。
出発の朝。窓から差し込む光が埃をきらきらと舞わせる中、私は生まれて初めて手に入れた自分だけの姿見の前で、優雅にくるりと回ってみせた。鏡に映るのは、いつも薄汚れたお下がりを着ていた私じゃない。物語に出てくるお姫様のような少女が、はにかんでそこに立っていた。
「リナ。ええ、ぴったりね。とっても素敵よ」
院長先生が、私の肩を優しく撫でながら微笑む。その目元は、昨夜泣いたのだろう、まだ少し赤い。
このワンピースは、院長先生が私のために用意してくれた、とっておきの一着。孤児院で一番上等だった古いシーツを、シスターたちが薬草で何度も煮詰め、澄んだ秋空の色に染め上げてくれたものだ。袖口には少し不格好だが心のこもった、小さな白い花の刺繍。糊が効きすぎて少しゴワゴワするけれど、これが私の人生で初めての「自分だけの、新品の服」だった。
(すごい……。これなら帝都の司令部に行っても恥ずかしくないわ。軍の書記官なら、お貴族様とお話しする機会もあるかもしれない。言葉遣いも気を付けないと)
私の頭の中では、バラ色の未来予想図が咲き乱れる。
前世の知識によれば、児童福祉法や労働基準法なんてものがあるくらいだ。いくら戦時下の異世界とはいえ、こんなか弱い(見た目は)八歳の少女を危険な最前線に送るなんて、国家の沽券に関わる。ありえない、絶対にありえない。
(勤務地は帝都の安全な司令部。毎日、温かくて美味しいご飯がお腹いっぱい食べられて、夜はふかふかの羽毛ベッドで眠れるに違いないわ。バラの香りがするお風呂にだって入れる。そして、ちゃんとお給金をもらったら……まず貯金して、院長先生に新しい毛皮のストールを。トムには革のボール、アンナには可愛いリボンを……)
「リナ、すごい!」「お洋服、フワフワ!」「お姫様みたい!」
幸せな妄想は、子供たちが部屋になだれ込んできたことで中断された。みんな、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私の新しいワンピースの裾を羨ましそうに、そして少し寂しそうに指でなぞっている。
一番年下のアンナが、裾をくいくいと引っ張った。
「リナ、行っちゃうの……? アンナ、寂しいよぉ……」
しゃくりあげながら、アンナは私の腰にぎゅっと抱きついてくる。その小さな声に、他の子たちも不安そうな顔で私を見上げた。
ぽつりと、誰かが呟く。
「偉い人になったら、きっと、私たちのこと、忘れちゃうんだ……」
その言葉が、私の胸に突き刺さった。
そうだ。この子たちは、私が遠くへ行くことをただ寂しがっているだけじゃない。私が違う世界の人間になって、みんなを忘れてしまうと怖がっているんだ。
私はその場にしゃがみこみ、震えるアンナの小さな体を強く抱きしめた。
「大丈夫よ、アンナ。寂しくなったらお空を見て。同じお月様が見えるから。それに、お休みの日には必ず会いに帰ってくる。約束するわ」
アンナの背中を優しく叩き、私は不安げなみんなの顔を見渡して、きっぱりと言い放った。
「忘れるわけないじゃない!」
自分でも驚くほど、強く、はっきりとした声が響いた。
「みんなは、私のたったひとつの、大切な家族なんだから!」
涙をぐっとこらえ、私は立ち上がる。精一杯の笑顔で、胸を張った。
「だから待ってて! 私が偉くなったら、毎週末、馬車いっぱいにプレゼントを届けるから! 蜂蜜がたっぷりかかったバターケーキとか、キラキラ光るお砂糖の塊とか! お肉だってお腹いっぱい食べさせてあげる! だから、泣かないで!」
私の大見得に、子供たちの目にぱっと光が宿る。「わーっ!」という歓声が上がった。そうだ、もうあのカチカチの黒パンとはおさらば。これからは甘いお菓子とジューシーな肉、輝かしい未来が待っているのだから!
やがて、石畳に蹄の音が響き、迎えの馬車が到着した。帝国軍の紋章たる翼持つ獅子が描かれた、見たこともないほど立派な四頭立ての幌馬車だ。
院長先生が私の手を握りしめ、小さな布製のお守りを握らせてくれる。中には、硬い石のような感触があった。
「私が子供の頃に母から貰った、聖リリアンの涙石です。きっと、あなたを守ってくれます。……リナ、無理はしなくていいのですよ。辛くなったら、いつでもここに帰ってきていいのですからね」
「大丈夫です、院長先生! 私、頑張ります!」
力強く頷き、院長先生と最後の固い抱擁を交わす。先生の背中が、小さく震えていた。
馬車に乗り込み、窓から顔を出す。
「行ってきます!」
遠ざかっていく古びた孤児院。涙ながらに、いつまでも手を振ってくれるみんな。私の目にも、熱いものがじわりとこみ上げてきた。
(待ってて、みんな。待ってて、私の輝かしい未来!)
ガタガタと揺れる馬車の中、私はこれからの栄光に満ちた生活を夢見て、胸をときめかせていた。御者台に座る護衛兵士の背中が、鋼のように強張って物々しいことにも、全く気づかない。
馬車の窓から見える景色が、帝都の華やかな大通りを抜け、次第に寂しい田舎道へと変わっていく。
(あら、司令部は少し郊外にあるのかしら。きっと機密保持のためなのね。静かで仕事に集中できそうだわ)
そんな超ポジティブな解釈をしながら、私は鼻歌交じりだった。
やがて馬車は、帝都を囲む巨大な城壁の、東に位置する物々しい門へとたどり着いた。
門を守る兵士が、私たちの馬車を見て敬礼する。
「これより先は東部戦線、軍の管轄区域です。ご武運を」
その言葉の意味を、浮かれた私だけが理解していなかった。
その門が、帝国で最も熾烈な戦いが繰り広げられている激戦区、『東部戦線』へと向かうすべての兵士たちが通る、希望の墓場、絶望への入り口であることなど、夢にも思わずに。