第322話:『約束の分け前、影の爆走』
「では、今後の『分け前』についてお話ししましょう」
私は木箱の上に一枚の羊皮紙の地図を広げた。カンテラのオレンジ色の光が、北の大地の起伏を柔らかく照らし出す。
「『忘れられた神々の遺跡』が見下ろすこの平原。ここに現在、北の地と帝国を結ぶ巨大な交易拠点――私は『道の駅』と呼んでいますが――を設立中です」
エノクは身を乗り出し、食い入るように地図を見つめた。カンテラの火影が、彼の深く刻まれた皺を際立たせる。
「すべてが終わった暁には、エノク老師。あなた方カナンの民に、この拠点の運営を委任したいと考えています」
「……なっ」
息を呑む音が、夜の静寂に落ちた。
「ただ……」
私は少し申し訳なさそうに、人差し指で頬を掻きながら苦笑いを浮かべて言葉を継ぐ。
「設営や初期の運営には、帝国側でも人手と費用が大きくかかっています。その費用負担など、具体的な条件については……後日、私の信頼する副官と調整をお願いします。決して、無理な話はさせませんので、それは……ご承知くださいね」
途方もない委任の提案に続いて出された、あまりにも現実的な「コストの調整」の話。
エノクは一瞬呆気に取られたように目を瞬かせたが、すぐに、愉快そうに喉の奥で低く笑い声を漏らした。
「……ほっほ。タダではない、というわけですな。いや、商人としては、無条件の施しよりも、そうして明確な『対価』と『責任』を求めていただける方が、何倍も信じられますわい」
老商人の灰色の瞳に、計算と野心を帯びた理知的な光が完全に戻っていた。
彼が「取引相手」としての顔を見せてくれたことに安堵し、私は言葉を続ける。
「それに伴い、北方の新たな商圏における、カナン人への優先的な交易権を付与します。それと……」
私は言葉を切り、震え始めたエノクの瞳を真っ直ぐに見据えて、
「南の領内に建設中の『特別商業特区』、およびそこに設立される『学園』へ、カナン遺民の子供たちの特別招待枠を設けます。彼らが飢えや暴力に怯えることのない安全な場所で、最高の教育を受けられるように」
エノクの呼吸が、ぴたりと止まった。
拠点の運営権、独占的な交易権、そして何より――奪われた次世代の教育。
それは単なる金銭的報酬ではない。カナンの「誇り」と「経済的支配力」、そして「未来」を丸ごと取り戻す、途方もない約束だった。
「……ほ、本気で……おっしゃっているのですか……?」
喉の奥から絞り出すような、ひどく掠れた声。震える老商人に、私は深く、力強く頷いた。
エノクは、ガタガタと震える両手で自らの顔を覆った。
覇国に踏みにじられ、奴隷として泥を啜ってきた、長い不遇の期間。それでも決して捨てきれなかった故郷への想い。それが今、この小さな少女の手によって、幻ではない確かな現実として目の前に提示されたのだ。
「おお……おおおおおぉぉ……っ!」
嗚咽が漏れた。エノクは木箱の横に崩れ落ち、冷たい泥の地面に額を擦り付けた。
「このエノク……そして、カナンの民一同! 命に代えましても、軍師殿の御期待に……必ずや、応えてご覧に入れますッ!」
それは、損得を重んじる計算高い商人の言葉ではない。故郷を取り戻す希望を与えられた一人の男の、魂の底からの、偽りない圧倒的な忠誠の誓いだった。
「……顔を上げてください」
私は張り詰めた空気を解くように、真剣な顔から一転、少し悪戯っぽく微笑んでみせた。
「『天翼の軍師』として、この計画を推し進めることをお約束します。……ただ、これってあまりにも私個人の独断が混ざっているので……。もし皇帝陛下に呆れられて計画が失敗しちゃったら、私をカナンの商会で雇ってくださいね。お茶汲みくらいならできますから。私の居場所、ちゃんと用意しておいてくれますか?」
私の冗談に、エノクは泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、驚いたように瞬きをした後、ふっと目尻を下げる。
そして、心からの敬意と親愛を込めて、深く頭を下げた。
「……もちろん。その時は我らが総力を挙げて、大歓迎いたしましょう。……まぁ、ありえん話じゃがな」
(……この少女ほどの逸材を、その程度のことで手放すような無能な皇帝ではあるまい)
エノクは、これまでの彼女の圧倒的な手腕と、それを支える帝国の見えざる巨大な後押しに思いを馳せていた。
(これほどの破格の権限を与え、かつ、これほどの手駒(護衛)をつけて敵地の目前まで送り出す。それは、彼女の安全を絶対的に担保しながらも、彼女の『思想』を帝国全体が支持している証拠。……その皇帝が、彼女を見捨てるなど、天と地がひっくり返ってもありえんことよ)
◇◆◇
会談は終わりを告げた。
エノクはその場で深く一礼して私を見送り、私はゲッコーさんに付き添われて、後方の岩陰で馬を待たせている場所へと下がっていく。
振り返ると、月明かりの下に立つエノクの周囲に、奇妙な気配が滲み出ているのが見えた。
ただの岩陰だと思っていた場所から、数人の人影が音もなく現れ、エノクを護衛するように寄り添ったのだ。彼らの身のこなしは、もはや覇国に虐げられる脆弱な奴隷のものではない。確かな牙を取り戻し、闇に潜む『暗部』としての、研ぎ澄まされた冷たい殺気を纏っていた。
「次にお会いする時まで、必ずご壮健で」
私が遠くから声をかけると、エノクは粗末な外套を翻し、ふっと微笑んだ。
「今度はもっと、暖かい所で会いたいものよ」
(……良いおじいさんだったな。あまり無理しないでほしいな)
私はその姿を見守りながら、内心でほっこりと安堵の息をついた。
過酷な労働と巧妙な変装のせいで、深い皺の刻まれた老人にしか見えないエノクだが、実はまだおじいさんと呼ぶには若い。だが、リナは完全に彼を「苦労人のおじいちゃん」だと信じ込んで、心底案じていた。
「では、帰還します」
背後で、氷のように冷淡で事務的なゲッコーさんの声がした。
直後、私の身体がヒョイッと宙に浮き、無言で馬の鞍の前へと抱え上げられる。
「えっ」
私が状況を把握するより早く、ゲッコーさんが手綱を握り、無情にも馬の腹を蹴った。
ドゴォォォンッ!!
馬が、物理法則を完全に無視したような凄まじい脚力で、ロケットのように発進した。
夜の荒野の景色が、一瞬にして流線型の光となって後方へカッ飛んでいく。強烈な風圧が顔面を打ち据え、息すらできない。
(あっ! 忘れてた! 帰りもこれじゃん!! うひょーッ!!!)
情緒もへったくれもない圧倒的なG(重力加速度)が、私の小さな身体を容赦なく襲う。
(ま、まって、まってまってまって! 怖いってこわいこわいこわいぃぃぃっ!!!)
先刻までのシリアスで感動的な会談の余韻は、文字通り彼方へと吹き飛んだ。
私は分厚い防寒着に包まれた丸い毛玉のようになりながら、ゲッコーさんの腕の中でギュッと身を縮め、声にならない絶叫を上げる。
『天翼の軍師』の威厳を微塵も残さぬまま、私たちは一陣の暴風となって、北壁の砦へとカッ飛んでいくのだった。
◇◆◇
一方、その凄まじい発進音に、岩陰にいたエノクとカナンの暗部たちは弾かれたように振り返った。
彼らが見たのは、瞬く間に夜の闇へと消えていく、文字通りの『黒い流星』だった。
「……ほっ、ほっほっほ!」
一拍の沈黙の後。エノクは思わず腹を抱え、夜の荒野で声を殺して笑った。
「あの方を乗せて、あの速度とは。帝国の懐は、どこまでも底知れんわい!」
エノクは笑い涙を拭うと、振り返って自らの護衛たちへ鋭く視線を向けた。
その顔は、もはや覇国の使い走りではない。黄金の都を裏から支えた、老獪な商会主のそれだった。
「さて、我々も退散するとしよう。あの娘に遅れを取るわけにはいかんからな」
次の瞬間。
杖を突いたよぼよぼの老人に見えていたエノクの身体が、まるでバネ仕掛けのように豹変した。彼は岩場を音もなく蹴り、護衛たちと共に信じられないほどの機敏さで、夜の荒野へと滑るように駆け出していった。
覇国が『奴隷』と見下していた者たちの真の力が、北の闇の中でついに解き放たれたのだった。
320話、321話。昨晩(1時30分~2時)、大幅に改稿しております。
が…基本的に話は変わっていませんので、気が付かれないかも(笑)




