第320話:『岩山の邂逅、老商人の分け前』
荒野の只中にぽっかりと口を開けた『枯れたオアシス跡』。
削り出したような荒々しい岩肌が骨の髄まで冷やす容赦のない外気を遮断し、すり鉢状の底には奇妙なほどの静寂が澱のように溜まっていた。
周囲の岩陰にはゲッコー率いる『影』の精鋭たちが岩そのものと同化して潜み、文字通り鼠一匹通さぬ絶対の「聖域」を作り上げている。
その底の平坦な岩棚に私は立っていた。
顔には銀の仮面をつけていない。
亜麻色の髪を無造作に風に揺らす、ただの少女の素顔のまま。
だが小さな背筋は見えない重圧に抗うように剣の刃のごとく真っ直ぐに伸びていた。背後の闇にはゲッコーが影として融け込んでいる。
やがて岩の陰から案内されてきた一人の男が姿を現した。
粗末で薄汚れた外套を羽織っているがその足取りは音もなく、背筋は一本の鋼が通ったようにピンと伸びていた。ロマンスグレーの髪を後ろで束ねた痩身だが枯れた魅力を持つ初老の男――エノク老師。
(……このまだ十にも満たぬような幼子が、あの『天翼の軍師』だというのか)
エノクは歩みを進めながら内心の驚愕を分厚い仮面の下に押し隠した。
だがカンテラのオレンジ色の光に照らし出された少女の凪いだ瞳を見た瞬間、その驚きは底知れぬ畏怖へと変わる。
彼女は北方民族が忌み嫌う『紫』の色をあえて袋の紐に使い、略奪を物理的に防ぎながら同時にカナン人に対して「お前たちの誇り(高貴な色)を忘れていない」という無言のメッセージを伝えてきた。
兵力ではなく物流と数字と心理で盤面を支配する。それはまさに彼らカナンの商人たちが信奉してきた『知の戦い方』そのものだった。
「……来てくださったのですね」
静寂を破ったのはリナの声だった。
粗末な木箱を挟んで向かい合うと、エノクは引き締まった口元をふっとゆるめた。
「ほっほ。呼び出したのはあんたさんの方じゃろうに」
軽口。
だがその灰色の瞳は油断なく私を値踏みしていた。かつて商都カナンを支え、今は覇国の中枢に潜む『耳目』。この老商人の目は言葉の裏にある私の器を測ろうとしている。
私はゆっくりと一歩進み出る。
その動きにわずかな迷いが混じっていた。
私の中で渦巻く軍師としての重責と一人の人間としての恐怖が喉を塞ごうとする。
「……今回の件」
私は絞り出すように口を開いた。
「ヴィクトルが無理筋な手段に出る危険性は計算上想定していました」
エノクの整った眉がほんのわずかに動く。
「ですが――」
私はぎゅっと小さく拳を握った。爪が掌に食い込む痛みが私を現実に繋ぎ止める。
「最悪の形で……密室でバラク殿を謀殺するという盤面外の凶行に出る可能性までは読み切れていなかった」
ここでほんの一拍。
岩山の上を吹き抜ける風の音が遠く聞こえた。
他人の命を盤上の駒として扱うことの真の恐ろしさ。
完璧だと思っていた自分の策が現場の機転に救われたという事実。それが私から傲慢さを奪い、代わりに深く冷たい後悔を突きつけてくる。
私は深く頭を下げた。
幼い身体には不釣り合いなほど深く。
「……助けていただき、ありがとうございました」
これは形式的な礼ではない。懺悔だった。
私の失策で彼は死地に沈んでいたかもしれない。その罪の意識が私の頭を上げさせなかった。
岩山の底に重い沈黙が落ちる。
エノクはしばらく黙っていた。カンテラの炎がパチリと爆ぜる。
そして上空を吹き抜ける風が彼の外套の裾を微かに揺らす。
やがて。
「――見当違いなことを言うもんじゃ」
ぽつりと。いつもの商人のような飄々とした調子で彼が言った。
「ありゃあな」
エノクは岩肌に軽く背を預け、腕を組んだ。
「その場に居らんと察しようのない類の『臭い』じゃ」
私はゆっくりと顔を上げた。
エノクの視線がまっすぐ私に向いている。
「人間の底意地の悪さや血の匂い。そして追い詰められた者の焦り……。ワシはたまたまその泥の中に居合わせ、嗅ぎ取ることができた。ただそれだけの話よ。」
軽い。あくまで軽く言う。
だが――私には分かった。
この男は私の抱える重圧も、私が陥りかけていた「完璧であるべき軍師」という呪縛も全部分かった上で言っているのだ。盤上の視点と現場の視点。その違いを明確にすることで私の背負い込んだ過剰な重荷を現場の人間としての矜持でそっと下ろしてくれようとしている。
私の瞳に宿るのは安堵ではない。
決意でもない。
もっと複雑な血の通った熱い何かだった。
エノクはふっと口元を緩めた。
「それよりじゃ」
少しだけ声の調子が変わる。
ほんの少しだけ低く、熱を帯びる。
「……あんたはこんな所で立ち止まっとってよいのか?」
空気がわずかに張る。
「――あんたは」
彼はにやりと古き商人としての牙を見せて笑った。
「儂らカナン遺民の『希望』じゃろうが」
私の瞳がわずかに揺れた。本当にわずかに。
国を奪われ、誇りを踏みにじられ、それでも泥水を啜って生き延びてきた者たちの切実な光がそこにあった。彼らは私に命を預けている。だからこそ私は過去の失敗に囚われて立ち止まってはいけないのだ。
エノクはわざとらしく肩をすくめた。
張り詰めた空気を少しだけ崩す。
「最前線の想定外なんぞな」
エノクは指で木箱の縁をとんとんと叩く。
「儂ら現場の年寄りに任せておきゃええ」
にやり。
かつての大商人らしい毒気を帯びた顔。
「そのくらい働かせてもらわんと――」
そう言ってエノクはわざとらしく自分の肩を回してみせた。
だがその瞬間。彼の顔がほんの一瞬だけ引き攣り、肩の奥にあるであろう古い傷を庇うような微かな痛みの気配が混じったのを私は見逃さなかった。
覇国の拷問を生き延びた肉体。決して万全ではない命。それでも彼は痛みを隠してわざと間を置いた。
「後の『分け前』が減ってしまうじゃろぅ?」
一瞬。
沈黙。
私の口元がほんのわずかに緩んだ。
それは――今日初めて見せた。年相応のかすかな笑みだった。
同情は彼に対する侮辱だ。私は「希望」として彼の覚悟に最高値で応えなければならない。
「……ええ」
私は彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見返し、確かな決意を込めて言った。
「とびきりの分け前を用意しておきます」
その言葉にエノクは木箱に手をつき、今度は彼の方から深々と地を這うように頭を下げた。
「我らカナンの死した魂を呼び覚ましていただいたこと。このエノク、生涯忘れません。……さあ顔を上げくだされ、天翼の軍師殿。この盤面、次はどう動かすおつもりかな?」
その言葉に私の迷いは完全に消え去った。
私は姿勢を正し、エノクの灰色の瞳を真っ直ぐに見返した。
大幅改稿です。2026.03.20-01:45




